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 出来事は だた起こるのみ 意味はなし・・・



 出来事は だた起こるのみ 意味はなし 好嫌善悪(コウケンゼンアク) 思うは吾なり。(2013/01/30)


 今エックハルトトールさんの「A NEW EARTH」を読んでいます。その中で学んだこと・整理できたことを、これからしばらくの間お伝えしたいと思います。


 まず最初にお伝えしたいのが冒頭の歌です。


 私たちは、全ての物事に意味を付けたがります。「悪いことが起こった・・・。○○のせいもしれない・・・。」というような事が、典型的なものだと思います。


 「悪いこと」という判断は、「あなたの善悪の価値観」に基づくものです。その善悪の価値観と「因果律」を結びつけているのも、「あなた」です。


 しかし、そのあなたは本当のあなたではありません。あなたのふりをした「エゴ」です。ゆっくり考えて頂きたいと思います。


 そのエゴを外から見ているのが本当のあなたです。





 エゴは言う 「好嫌善悪 つけるは吾 ・・・」と。



 エゴは言う 「好嫌善悪 つけるは吾 つけねば吾は 消え失せるなり」と。(2013/02/07)


 前回の記事を読んだ人の多くは、


 「でも、そんなことを言ったら自分が無くなっちゃうって事じゃないの?好き嫌いをつけることや、善悪の判断を付けられるようになることが、人間としての成長じゃないの?」


 という風に思われるのではないかと想像しています。どうですか?


 「生理的にヘビは苦手」というのはいいと思います。現時点では。


 でも、「あの人の支持する政党が嫌いだから、あの人も嫌い」というような考え方は、エゴからのものであると言っているのです。


 政党は自分たちが「善」だと思う政策を掲げて、選挙を戦います。実際、選挙に勝ったらその約束を反故にするつもりであっても、当選するためには「手段は何でもOK」という形でですが・・・。


 先の例の構造を簡潔に言うと、「その善を支持するあなたが嫌い」という事になります。


 善・悪は相対的なものです。少なくともこの私たちの住まう世界においてはです。


 ガンジーは善でしょうが、彼とてイエスや釈迦のでは、「相対的に善が少ない」=「相対的に悪に近い」という事になります。


 イエスや釈迦においても、相対的に悪とされる「さらなる善」が存在するはずです。ですが、私たちにおいては、イエスや釈迦が到達した世界に触れるだけでもとても難しい事です。


 それですので、更に上の世界の事を、今気にする必要はありません。それは杞憂です。気にしたらそれすらエゴになります。


 よって、好嫌善悪は付けるべきではないのです。好嫌善悪は「価値判断」です。ACIMでは、「価値判断は聖霊に属する事柄である」と明確に書かれています。


 それですので、私たちは価値判断をせずに、全てをありのままに受け止め、それも「全てはベストなタイミングで起こっている」と思い受け入れるべきです。


 これは自己欺瞞でもなんでもなく、本当に、「ベストのタイミングで全ての事柄が起こっている」のです。それを実感できるためには、まずはエゴを脱ぎ捨てることにチャレンジしなくてはなりません。


 エゴと闘うとエゴは更に強くなります。自分の中のエゴであっても、相手の中にあるエゴであっても基本的には同じ反応をします。


 エゴを脱ぎ捨てるためには、「それに気づき・見つめる」だけで可能になります。エゴに思考という餌を与えなければ、だんだんエゴは萎んで行きます。エゴとはそのようなものです。寄生虫や寄生植物と同じです。


 彼らに自発的に餌を与えなくすることはできませんが、エゴはそれとは違いあなたが餌を与えないということを自発的にできる・・・と言うより、あなたが自発的に餌を与えないということを始めない限り、エゴは消えません。


 カウンセリングは使い方によっては役に立つでしょうが、宗教は役に立ちません。宗教はエゴを強化はすれど減少はさせません。イエスや釈迦の教えはエゴを萎ませますが・・・。この辺を書くとくどくなりますので、割愛します。





 「吾思う 故に吾あり」 言うなれど・・・



「吾思う 故に吾あり」 言うなれど 前と後では 違う吾なり。(2013/02/13)


 前の歌のように、全ての「好嫌善悪」を否定しても、「思考する吾」は消えません。その事を明らかにしたのがデカルトで、そこ言葉が「吾思う 故に吾あり」です。


 この考えている「吾」は本当に存在します。「故に吾あり」の吾も存在します。この2人の「吾」は同じものだと、デカルトの後300年間信じ続けられてきました。


 しかし、前の吾と後ろの吾は、「違う意識である」と気いたのは、300年後のサルトルでした。


 サルトルの言うように、「前の吾」と「後ろの吾」は違います。前の吾を客観的に見つめているのが、後ろの吾です。


 多くの場合、後ろの吾が本当の自分です。では、前の吾とは誰でしょうか?


 デカルトは「全ての『事実と感じるもの』を疑う事は出来る。しかし、疑っている私は『本当に存在』している。」と言ったのです。


 人間は疑う以外のことをします。それが「思考」であり、「好嫌善悪」付けるたがる「吾」です。これは、「エゴ」です。デカルトはエゴの存在に気づいたのでしょうが、それがエゴだとは認識していなかったのだと思います。


 300年後のサルトルは、その吾を見つめている吾が存在していると気がつきました。しかし、それが、「本当の自分である」とまでは気づいていなかったのかも知れません。


 前の吾が「ほとんどエゴからなる自分」であり、後ろの吾が「本当の自分っぽいもの」と言えるのだと思います。





 敬虔の 言葉に酔いし クリスチャン・・・



 敬虔の 言葉に酔いし クリスチャン 全き心 何処に行かん(2013/02/18)


 先日テレビを見ていたら、とあるクリスチャンの生涯をアナウンサーが聞き出していました。


 何となくそのクリスチャンのお話を伺っていると、エゴが「全き心」のふりをして、紛れ込んでいるように感じました。


 その証明となるべき言葉を、そのクリスチャンが語りました。


 『くれない族でしたので・・・』


 彼女は、「一人の男性に仕えたり、自分の子どもだけを愛するのではなく、多くの人のために働きたい」と望み、修道女になったと番組の冒頭で語っておりました。


 この時点で、「修道女になる動機がずれていないか?特定の人を全身全霊で愛せるようになることと、広くあまねく愛を注ぐこととは、共に大切であり、一人の人さえ愛せない人が多くの人を愛せるようにはならないですよ。論理的におかしいですよね。」と思っていたところに・・・。


 『くれない族でしたので・・・』の発言がありました。


 くれない族とは、「○○してくれない」と、事ある毎に、不平不満を言う人達のことを言います。


 修道女がくれない族って、おかしいでしょ?


 その修道女は、とある大学で地位ある立場にあったとき、とある神父から


 『あなたが変わらない限り、回りはかわらない』

 と言われたそうです。


 その地位に付くほどになっても、その事にすら気づけないでいた、かつ、そのことを回りのひと(この時は神父)に見抜かれるほどひどかった、ということがこの逸話からわかります。


 その後、このクリスチャンは岡山の神学校かクリスチャン系の学校の学長になったそうです。そこでも「くれない族」だったらしく、『置かれた場所で咲きなさい』という言葉を、外国人宣教師から送られたそうです。


 この人は本当に「アウト」だと感じました。


 アナウンサーが「○○さんの力はどこからくるのですか?」と質問されたとき・・・私は当然イエスの御言葉か聖句をあげるのだと思ったのですが・・・


 「祖母と母からの教え」的なことを答えていました。クリスチャンとして、間違っています。人としてならかまいませんが・・・。しかし、彼女はカトリックの長老なのだと思います。マザーテレサが来日したとき通訳したそうですから。


 この番組は出張先で見たものですので、帰ってきてから妻に、この番組の内容を伝えたところ「その人の説法を収めたCDか何かが新聞で売ってるのをみたよ」と教えられました。


 自由奔放に遊び尽くした後、尼さんになり、説教している人もいますが、この人の話もICレコーダーで売られていました。これらを買う方も買う方だと思いますが、出す方も出す方だと思います。まあ、発展途上(それも本当に初期の人)には役に立つと思いますが、ある程度浮き世を生きてきた人には、不必要なものだと思います。


 そのような方にはエックハルトさんの著作やDVDを勧めます。今日は批判的な記事になってしまいましたが、先の人達の言葉に惑わされると、更に深みにはまる人も現れると思い、あえて書きました。失礼・無礼はご容赦ください。





 思考止め 好嫌善悪 消えるなら・・・



思考止め 好嫌善悪 消えるなら 本来の吾 現れるなり(2013/03/01)


 『好嫌善悪を付けない・それを判断しない』ことが大切だと、前の前の記事で書きましたが、その続きです。


 『好嫌善悪を付けない・それを判断しない』ことの他にもやるべき事があります。それは、『思考しないこと』です。


 「はぁ?何を言っているのか、いみがわかりましぇ~ん。頭、大丈夫ですかぁ~」


 と言われそうですが、本気で言っています。思考を止めると現れてくるのが『本来の吾』です。


 よく坐禅などで、「無になれ!何も考えるな!」と言われますが、実際にこれができる人は、ほんの僅かだと思います。


 坐禅会などに行かなくても良いので、ゆったりできる場所で「思考しない」ことをやってみて下さい。難しい事が、お分かりいただけると思います。


 思考しないために「考えないを『する』」ではなく、『目の前の事だけに集中する』という方法もあります。文字通り、今・ここを生きるのです。


 『今・ここ』の重要性は、禅の教えですが、これを同じように『今・ここ・自分』と言われることがあります。ですが、この自分は『エゴ』である確率が高いです。それですので、自分は除いて、『今・ここ』に集中して下さい。


 「今・ここ」から離れてしまうと、意識は未来や過去に囚われてしまいます。エゴの罠にはまる事になります。


 今日はここまでとします。





 法王退位 コンクラーベで 根比べ 誰であっても 虚構の聖人



法王退位 コンクラーベで 根比べ 誰であっても 虚構の聖人(2013/03/04)


 ベネディクト16世が存命中に退位されたそうです。これからコンクラーベで新たな法王が選出されることとなりますが、誰がなったとしても『虚構の聖人』であることだけは確かです。


 ここで『虚構の聖人』の解釈として、2通りの解釈があります。


 1つ目は『カトリックという「虚構」に現れた聖人』、2つ目は『カトリックという「虚構」に現れた「ニセモノの聖人」』という意味です。


 この解釈の両方とも、カトリック=虚構となっています。これに関しては色々と語らなければならない事があるのですが、『割愛』します。


 1つめの解釈で、『新たな法王=聖人』となります。とある預言で、「存命中の法王が退位した場合、その次ぎに現れる法王がカトリックの最後の法王となる」というものがあります。


 これが本当であるなら、次の法王は「聖人」という事になります。なぜなら、悪の枢軸の一角をなすバチカンを解体することになるからです。


 2つめの解釈では、『ニセモノの聖人』という意味になります。(カトリックはこの場合、本物であろうと偽物であろうと特に問題ではありません)


 世界に貧しい国があるにも係わらず、豪華な服を着ながら、多数の美術品等を所有できる組織の長であり続けるためには、『ニセモノ』でなければなりません。


 もし、イエスの教えを信じているのなら、そのようなことができるはずはありません。それですので、『ニセモノ』です。


 どちらにしても、コンクラーベで根比べした後に選出された法王は、最後か最後から一つ前の法王になるはずです。その事によって、イエスの教えを貶めた・曲解させた教会の一つが滅ぶ事になります。


 12億人が途方に暮れるでしょう。当面の間は・・・。しかし、その中から、本当のイエスの教えに気づく人も出てくるでしょう。


 ですが、その人達の前に目覚めている人が必要になるはずです。聖書の言葉の『先のものが後になり、後のものが先になる』は、このことも含んでいると思います。このブログを読んでくれている人は、後のものですが先になるべき人だと思います。





 あなた方の神が全体であるように・・・



「あなた方の神が全体であるように あなた方も全体になりなさい」と 宣うイエス 聖書の「完全」 悲しき誤訳。


完全を 求めし吾は 悲しくも 茨の道で 今に至れし。


完全を 求めし吾は 嬉しくも 必然により 「今」に至れし。


 ここに3つの歌を併せて紹介します。3つを一つとして読んで頂かないと、意味が伝わらないためです。


 それぞれ、最初から①②③とします。


 ①の「完全」は、現代語訳の聖句です。わたしが読んでいたものも、このように書かれていました。(ただしこれは誤訳であり、初期のギリシャ語どおりに訳すと「全体」となるそうです。エックハルトさんの本で知りました。)


 この言葉を知ったのは、中学生か高校生のころだったと思います。この言葉を体現できるものとなろうとして、②の生き方をしてきました。


 ②の生き方の中で、様々なことを経験しました。境界線の外と内を彷徨いながら生きてきたような気がします。私の多くを知っている人は、「とても一人の人の人生とは思えない」とか、「お前が今ここにいるのはおかしい」とか言われました。


 完全を求めても完全にはほど遠く、上を見ては絶望し、下で溺れようとしても溺れられず、生きることが辛かったのを覚えています。


 その顛末は『鬱』の発症です。寛解までに数年を要しました。積み重ねたキャリアは失われました。ちょうど、中学生の時に腎臓を患い、スポーツ万能と成績優秀というプロパティを失った時と同じ感じでした。


 私が聖書の世界に入ったのは、その中学生の時に、「殉教と自殺の違いを理解したかったから」が動機です。


 物心付いたときから厭世主義だった自分が、塩狩峠の主人公だったとしたら、それは殉教なのか・自殺なのか、その問いの答えを求めてイエスの言葉を学びました。特定の団体には入らず、聖書とJ・S・ミルの哲学からその答えを探しました。


 しかし、答えに焦点が完全に定まらないまま、夫になり、親になりました。そんな中で鬱になりました。それから抜け出る中で③の歌の心境になっていきました。


 ②から③への移行は突然ではなく、徐々に変化して行きました。生まれてから鬱を煩うまでは・・・、というより、鬱から抜け出せるまでは、身内や社会を恨んだ時もありましたが、今となっては全ては「必然」だったのだと感じています。


 全ての条件を整えて今の環境に生まれてきたのだと思います。最も成長できる条件を整えてです。踏まれて育つ麦を想像して頂ければわかりやすいと思います。


 ①の正しい訳は、「あなた方の神が全体であるように あなた方も全体になりなさい」です。でも、多くの人は、『全体ってどういう意味ですか?』だと思います。


 全体とは、私もあなたも、森羅万象含めて一つであり、神が具体化したものという意味です。具体化していない部分が、『意識』であり、言葉を換えれば、神性であり・仏性であり・アートマンなのだと思います。


 イエスは、『あなた方は神の宮である』と言われました。神は外に探すものではなく、内に見いだすものです。自分がまとっている様々なプロパティとエゴを脱ぎ捨てたとき現れるものが、『神の宮』であることろの、大海の一滴である「本来の吾」なのだと思います。





 豊かさを 満たす心は まず我に(続く)



   豊かさを 満たす心は まず我に
        井の中で あろうと そうでなかろうと


(解説)
 『「ありがとう」と思いながら、日々を送ろう。そうすれば、少なくとも自分は幸せでいられし、いずれは、世界も幸せになるかも知れないから。それを望み祈りながら生きよう!』


 と言って日々過ごす方がいるとします。


 一方、その人に向かって


 『世界中が不幸なのに、自分だけが幸せになろうなんて許せない。もっと世界の為に働いてよ!』


という方がいるとします。


 最初の方は、「自分が幸せに」かつ「感謝して」と思っていますが、自分だけとまでは言っていません。いずれは、世界にその想いが広がればいいと祈っています。


 後者の方は、『それは分かるよ。でもね、今はそんな悠長なことを言ってられる時ではないと思う。もっと、ちゃんとやってよ。貴方はできるのだから。』と返すかも知れません。


 前者の方が、後者の方の意見を受け入れ、精神的に『辛く』なったとします。精神的な『過負荷』です。そうすれば、前者の方は、僅かにあった『幸せの火種』さえ消してしまうことになるかも知れません。


 前者の方の意見も、後者の方の意見も、どちらも『もっとも』だと思います。ただ、ここで最も大切にしなければならないのは、我が心の中にある『豊かさ』だと思います。


 井の中から始め、大海を目指せば良いと思います。


 自分は、トライアスロンをやっていますので、オープンウォーター(海や湖&コースロープなし)で泳ぐ事ができます。しかし、プールで25mがやっとの人にオープンウォーターは勧めません。溺れるのは確実ですし、レースであるならばボランティアの人に迷惑を掛けることにもなるからです。


 自分はレスキューの資格もありますが、オープンウォーターで『既に溺れてパニックになっている人』を助けるかどうかは慎重になると思います。理由は、二人とも溺れる可能性があるからです。「溺れる者は藁をもつかむ」状態の人を制しながら、泳ぎ切るのは普通の泳力では無理だからです。


 人を救わんとしても、自分が溺れたら、二人とも助かりません。まずは、自分が幸せと豊かさから離れることなく、それを延長していくことが大切だと思い、この歌を詠みました。





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