2012年6月

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 2012/06/01(金)


 映画:セブラーマン「ゼブラシティーの逆襲」を見ました。ちょっとだけいいメッセージがありました。



 セブラーマンの2作目、『ゼブラシティーの逆襲』を見ました。


 この映画を見ようと思ったのは、1作目がよかったからです。1作目がよかった理由は、うだつの上がらない小学校教師が『努力してゼブラーマンになっていく・なる』というストーリーだったからです。


 決めぜりふは『白黒つけるぜ!』でした。最後に侵略者を倒した後に、言う台詞は『白黒つけたぜ!』です。まあ、おもしろかったです。


 しかし、この映画を見たときに、気になったのは、『白黒つける』という考え方でした。


 私は、鬱を煩いました。その時に学んだことに、「鬱病患者の考え方に『白黒思考』というのがある」という事があります。白黒思考とは、『物事を、0か100、どちらかに決めたがる』というものです。


 そして、鬱病患者は、『物事を0に捉え易い』→『完全に失敗だ!』→『死ぬしかない』と考えるのです。


 それですので、ゼブラーマンの『白黒つける』という考え方は、ちょっとクエスチョンでした。


 それを踏まえての2作目ですが、内容的にはひどかったです。しかし、ゼブラーマンの敵役のゼブラクイーンは、とてもよかったです。レディ・ガガのパクリかな?という感じでしたが、そのPV映像はよくできていました。曲もダンスもスタイルも衣装も化粧も、です。


 それ以上によかったのは、ゼブラーマンの最後の台詞です。


 『白黒つかなかったから、まーるく収めたぜ!』です。


 この台詞を吐く前に、ゼブラーマンは世話になった元教え子に、『白黒ついたら、人は幸せになれるんですかね?』と問いかけます。この後、敵を吸収した後(倒すのではなく、己の一部にしたのです)に、最後の台詞を言ったのです。


 客観的な尺度などというものは、この世にはありません。前例を踏襲する司法でさえ揺れます。そんな世の中で、白黒の判断は過渡的なものとなります。その中で、白黒をつけることに固執してしまうと、人は幸せにはなれないと思います。


 犯罪被害者、そしてその家族であっても、白黒つけることに囚われないことが、立ち直る・再出発するための、必要条件だと思います。


 今の時代は、隠れていたものが全て顕わにになろうとしています。そのような環境で、『黒を暴き、黒を裁こう!』という風潮が席巻しています。しかし、それでは幸せにはなれないでしょう。


 『そう言えば、そんな事もあったよね』とか『そう言うこともあるかもね』とか言って、全てを受け入れ、その後で『もう済んだ事だから、今さら何を言っても始まらないじゃんっ。だからこれからどうするかを考えようよっ!』って前を向いていくことが大切だと思います。



 2012/06/04(月)


 大それた発言ですが、神の視点とイエスの気持ちを垣間見た気がしました。



 先週の土曜日に二女と二女の友達たちと川遊びに行きました。と言っても、車でどこかへ出かけたという訳ではなく、近くに川の行っただけです。


 二女の友達たちは、何度もその川にザリガニとりに行っているそうですが、二女は初めての体験です。二女は軽い障害を持っています。


 川遊びは危険が伴います。自分も子どものころ、川遊びをしていて、転んで石で頭を打ったり・足の裏をガラスの破片で切ったりしました。それですので、川遊びの危険はとてもよく知っています。


 心配はありますが、川岸からずっと見守ることにしました。サンダルを履いているので、足の裏は切らないでしょう。しかし、角張った石がごろごろしていたので、足を滑らせれば、頭を切る位はするかもしれません。


 ですが、不安と期待を表情に浮かべながら、慣れた友達たちの後を追う二女に、声はかけないようにしていました。


 皆、杖代わりに、竹の棒をもって川に入っていました。それで、目を突く可能がありました。それですので、その危険がありそうな時だけ、声をかけることとしました。結局、そのような事態は起きませんでした。


 『自立』そして『自律』して、進んでいこうとする娘に「水を差す」ことは、娘の成長の妨げになると思います。


 たとえ、川に足を取られても、頭を切っても、「冷静に対応できる」自信が自分にはあります。スキューバ・ダイビングでとったレスキューの資格も役に立つでしょうが、それ以上に、自分には越えてきた多くの体験があります。それらを持ってすれば、『事故』が起きたとしても、冷静に対応できると思います。


 そのような想いで、岸辺から子どもたちを見ている時、『神様もこのような視点で人間を見ているんだろうなぁ』と思いました。


 「偉そうなこと言ってるくせに、今更そんなことに気づいたの?」という声もあるでしょうが、別に今回が初めてというわけではありません。しかし、より深くそれを感じることができたのです。


 なぜ神は手を差し伸べてくれないのか!


 ということを宣う人がいます。しかし、神が直接手を出してしまったら、私たちの『創造性』は阻害されてしまうのです。神のコントロール下に置かれてしまうのです。私たちが、神の一部であるのにも係わらずにです。


 「神はサイコロを振らない」と言ったのはアインシュタインですが、神はサイコロを振らないと思います。しかし、私たちの自由意志というサイコロを神は用いているのだと思います。


 神の視点は以上ですが、次にイエスの心情を体感したことについて述べてみます。


 夜、お風呂に入っている時、妻から「二女の足を流してくれる?」と言われました。川遊びをして、汗もいっぱいかいたので、お風呂に入った方がよいのですが、疲れてお風呂には入れない様子です。それですので、特に汚れている足だけを流して、ということです。


 二女がお風呂に来て、洗い場で足を洗いました。石けんをつけてゴシゴシと・・・・


 その時、イエスの視点になれたのです。聖書にある「弟子の足を洗うイエス」の視点に。


 イエスは、十字架に架かる前に、弟子たちの足を洗います。


ペテロ:「先生、やめてください」
イエス:「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関わりもないことになる」



 イエスの弟子は、全員イエスを裏切ります。イエスはそれを分かっていたので、彼らの足を洗ったのです。関わりを残すために。


 本来は、『イエスの教えを直接受けたもの』という最大の関わりがあるのですが、弟子たちがイエスの使命もその御心も理解していなかったため、結局は十字架を避けざることを得なくなります。


 それが予見していながら、足を洗い・関わりを残そうとしたイエスはどんな気持ちだったのだろう・・・とずっと思ってきました。


 多分イエスは、未熟な弟子のことを残念に思っていたのではないか・・・、もっと物わかりのいい弟子ならよかったと思っていたのではないか・・・、そう思いながら足を洗っていたのではないか・・・、と思っていました。二女の足を流すまでは。


 しかし、二女の足を洗いながら感じたことは、『愛』だけです。足を洗いながら感じたことは「きれいになれ」「愛おしい」「幸せな感じ」だけでした。


 イエスも「同じような気持ちで足を洗われたんだ!」と感じました。ベタニアの香油の逸話のように後に聖書が編纂された時の事や、弟子の資質の事や、十字架の事など考える事なく、ただ『愛』として足を洗われたのだと。


 イエスは「人の子は仕えられるために来たのではない、仕えるためにきたのだ」とおっしゃいました。それをいつ何時でも実践されていただけであり、過去(救世主として待ち焦がれられた存在であった)も未来(しかし、全ての救済を完遂することなく、無念にも十字架に架からなくてはならない)も『関係ない』という視点で存在されていたのだと思います。


 『私の聖性が私の救済である』が今日のACIM(奇跡講座)ワークブックのテーマでした。今日の出来事に対し、私に、このようなことを気づかせてくれたのは、私の中の聖性だと思います。その聖性が、全ての過去の出来事から私を救済してくれているのだとおもいました。


 全ての出来事の価値判断をするのは、自分自身です。自分自身の視点が「ゆがんでいたなら」不幸な出来事もいっぱいあるように感じるでしょう。しかし、自らの聖性でこれらを見る事ができれば、全ては「御恵み」と捉えられるはずです。


 今日のこの日は、私にとってとても貴重な一日でした。



 2012/06/11(月)


 『恩を仇で返す』という考え方には、恩を与えられた側にも・与えた側にも問題があります。その理由とは・・・



 「恩を仇で返された!」という言葉はよく口にされますよね。または、「育ててもらっている恩も忘れて!」とかも。


 これは、『恩を与えた側』の発言です。その反対に、


 『頼んだ覚えはない!』とか、『あんたが好きでやったんでしょ!』


 というのは、『恩を(一方的に)与えられた側』の発言です。『えっ、何のこと?』というのは、「恩を与えた」与えた側が思っているのに、与えられたとされた側が、全く意に介していない場合の発言です。


 これらの反応の中で、『えっ、何のこと?』がもっとも適切な反応でしょう。ただし、これは、『恩を与えられた側』の発言ですが、本来は『恩を与えた側』が思うべき反応でもあります。


 今、話題にしている『恩』とは、『貸し借りができるもの』として扱われています。でも、貸し借りができるものとは『仮想的なもの』です。『真実の世界』では、全ては一方的に『与えられるだけ』です。


 例えば、酸素は地球から与えられていますが、地球は『恩を与えている』と考えるでしょうか?そしていつの日か、その恩を『耳を揃えて返してくれ!』というでしょうか?言われないですよね、多分・・・。まあ、因縁果報ということで、返さなければならないカルマはあるかもしれませんが、それは『貸し借りの問題』ではなく、単なる『法則』です。


 『恩』と『愛』は似ているものですが、根本的な違いは、本当の『愛』ならば、与えても返してもらおうとは思わないはずですし、また、与えたとも思わないはずです。そもそも『愛を与えた事すら忘れてしまうのが愛』です。


 よく親は、「子どものことを愛している」と思われていますが、恩のレベルで留まっている人が多いと思います。なぜなら、『感謝されること』を暗黙の内に想定しているからです。


 感謝されようが・されまいが、ましてや、罵倒されようとも、その人の為になるのであれば、与えたいのが『愛』なのです。


 ただし、ここで『その人のためになることが何なのか』が問題になります。


 部活動とかで、スパルタ教育をする監督がいたとします。ちゃんとした運動生理学とトレーニング法をマスターした『プロの指導者』であったとします。しかし、初心者集団のチームに異動してきたなら、スパルタではうまくいかないと思います。


 初心者には、『その競技を好きになる』という『成功体験』が必要です。それを経ずして『スパルタ』に入ってしまえば、皆その競技が嫌いになるでしょう。しかし、その指導者が、熟練したチームに赴任したなら、『愛を伴ったスパルタ』は効果があると思います。


 昔、巨人の星という漫画で、「百獣の王は千尋の谷に我が子を突き落とし、這い上がってきたものだけを育てる」ということを何度も述べていましたが、本当の百獣の王は、そんなことはしません。梶原一輝の妄想です。


 野生の生物は、子どもが雛の時は、手塩にかけて我が子を育てます。しかし、巣立つべき時が来たとき、非情にも思える態度で子どもを突き放します。その子が独立した存在となるために。


 人間は、保護すべき時に放棄し、離すべき時が来ても、その手を離さない傾向が多い気がします。


 「我慢しなさい」「勉強しなさい」「理屈をこねるんじゃねえ!」等々、子どもの素直な気持ちを受け入れません。おねしょをするからと言って折檻するものまでいます。それは躾ではなく、単なるあなたのエゴから発生する要求を過剰に子どもに要求しているに過ぎません。


 子どもが成長していけるよう、その場その場で、適切な事象を提供することが、『親の愛』なのだと思います。無駄に見えるような事や物も、経験として、その子の血肉になります。最初から親が『善・悪』や『必要・不必要』を判断して与えるのだとしたら、その子は成長するための機会を奪われる事になります。


 その子は、親元を離れてから、自らの手で、再度『善・悪』や『必要・不必要』等の価値基準を構築していかなければなりません。既成の価値観を一度押しつけられた子どもは、その再構成に多くの手間と時間がかかるでしょう。そのために、本来到達できたであろう高見にまで到達できなくなるかもしれません。


 親は創造性を発揮しようとしている子どもの意欲を削いではいけません


 そして、親の親の親の親の親の親の・・・・・ずーっと親は、『神』です。因縁果報の法則を創られたのも『神』です(もちろん天使や人類を含んだ意味での神です。なぜなら全ては一なる存在だからです)。それですので、あなたの人生は、神から発しているのであり、それを生きているあなたは、神との共同創造者として、『あなた自身の人生』と『今の世界』を作り上げているのです。その自覚と責任を持つ必要があります。しかし、だからと言って、それらに対し、負担を感じる必要はありません。


 あなた(もちろん自分を含んでいます)がなすべき事は、『自分の人生を他人任せにするな!』という事だけです。『何々のせいで』とか、『誰それのために』とか、という言い訳をすることは、その部分に関して『特定の事象や相手の影響を極めて受け、結果的に、その部分をそれらの事象やそれらの相手に任せている』ということになります。


 何が起ころうと、誰それがあなたに何かをしようと、『I am happy!』という状態にいることが、自分で自分の人生を生きていることになります。あなたが、幸せでない状態にいるということは世界の創造目的に反しています。それは単なる幻想です。それもあなた自身が作り上げたものです。


 幸せは『なる』ものではありません。幸せは『いる』または『在る』ものです。あなたがその状態に『いたい』『ありたい』と思えば、その場に『いる』事ができるし、『在る』事ができるのです。神は『I am I am』と言われました。日本語で言うなら『あってあるもの』です。その状態は『愛』であり『幸せ』以外の状態はありません。もし、それ以外の状態が存在すると考えるのなら、それは、あなたがその幻想を作り上げているに過ぎません。


 そこに留まるのも自由ですが、離れるのも自由です。どちらを選択するかに関しては、あまり悩むことなく決められると思います。たとえそれが誰であっても・どのような環境であってもです。



 2012/06/12(火)


 『絶対に負けられない戦いがそこにはある』って表現、ちょっと変ですよね?



 今日は、サッカーのワールドカップの予選があります。サッカーというと、必ず冒頭の言葉が枕詞として掲げられます。この言葉を使い始めたのは、川平慈英さんだと思います。


 彼は、サッカー好きで、なおかつ、日本を応援していますので、このような表現を使ったのでしょうが、『絶対に負けられない』と言っても、1/2の確率で『負けること』は確実です。もちろん、実力が同等の場合ですが。


 勝負事なので、どちらかが勝って・どちらかが負けるのは確実です。それなのに、『絶対に負けられない』という表現は変です。自助努力だけで100%成し遂げられる内容なら、『○○られない』という表現も可能ですが、勝負事なのでそうではありません。相手も本気で勝ちに来ているのですから。


 そもそも、球の蹴りっこごときに、それほど大層な表現を使うのがおかしいです。『日本頑張れ!実力が出し切れるように祈ってる!』って言うのが、精一杯の応援の言葉だと思います。ただし、日本だけを応援するということは、自分の愛するものだけを愛するというコニュニタリアニズムです。そして、コニュニタリアニズムは戦争や民族紛争の根源的となる考え方です。マイケル・サンデルはこれが『善』だと言っていますが、アメリカの侵略を正当化する為の詭弁です。サンデルはその手先でしょう。


 話がそれましたが、私は、サッカーを馬鹿にしているのではありません。私も、ゴルフという球の入れっこを真剣にやっていますので・・・。ですが、哲学のごとくゴルフを語る解説者が嫌いです。例えば青木功さんです。ゴルフなんて所詮、遊びです。球聖・ボビージョーンズとか言いますが、単なる球の入れっこごときがうまい人に『聖』という言葉を使って欲しくありません。


 やくざのような言いがかりになっていますが、なぜ私がこのような些細なことにこだわるかというと、『些細なことを大層なことのごとく報道・放送し、本来報道すべき重要なことについては見て見ぬふりをするテレビ・新聞というメディアに、その報道姿勢を正して欲しい』『そのような些細なことを、大層なことのごとく報道されることにより、本来目を向けるべき重要な事柄から、目を背けされられてしまう国民に目を覚まして欲しい』という想いからです。


 先進諸国と呼ばれてきた国々は、破綻しかけています。円高・ドル安、円高・ユーロ安とか言われていますが、BRICsの通貨に対しては、円は高くなっていません。ドル・ユーロが安くなっているだけなのです。


 アイスランドはゴールドマン・サックス等のヘッジファンドにより破綻に追い込まれましたが、もともとは健全な国家財政が営まれていました。しかし、これらのファンドが投機的な目的で乗り込んできて、根こそぎ奪っていったのです。


 ですが、アイスランドは、これらファンドの不当な投機で負った借金を『返さない』という決断をして、国を再建しています。見るべきニュース・語るべき事柄の一つに、この事柄はあげられると思います。


 日本は米国債を何かというと買わされています。挙げ句の果てに韓国債まで買う騒ぎです(韓国債も米国債と同様に紙くずに近いです)。これらに対して『No』という声をあげられる国民になっていく必要があると思います。


 それには、個々人が球の蹴りっこや・入れっこ以上に、世界の情勢や太陽の異変について目を向けるべきです。


 ですが、世界の情勢や太陽の異変ですら、『些細なこと』です。それら以上に大切なこと事とは、『あなたの意識を、どのように保つか・どのように成長させるか・どのように拡張させるか』だと思います。


 まあ、最後の部分は、多くの人には受け入れられない内容であることは承知していますが、最終的な観点はここであるはずです。


 テレビ・新聞だけを鵜呑みにするのではなく、まずあなたが主体的に情報を収集し、それらをあなた個人の問題として昇華していく必要があると思います。



 2012/06/15(金)


 桂三枝が橋下市長に、『伝統芸能には守らなければ続かないものもあります。』とチクリと刺したそうです。



 私は、ちょっと前まで『保護しなければ消えてしまうような文化なら、予算を投入することなく、自然消滅させた方が全体の幸福に寄与できる』と考えておりました。しかし、最近、その考え方を改めています。


 私はクラッシックが好きです。ですが、地元の交響楽団の演奏会には、『もう二度と行かない!』と前回の演奏会で決めました。前回の曲は、マーラーの交響曲9番でした。


 わたしは、最高の交響曲書きは、マーラーだと思っていますので、何枚ものCDを持ち、『ベルリンフィル&指揮:ラトル・&サントリーホール』の演奏会にも行きました。チケットは、正規ルートでは購入できず、オークションで購入しました。5万位しましたが、本来の席は3.5万円位の席でした。そのため、ベルリンフィルにも係わらず、満足できませんでした。その前年には、ウィーンフィルのマーラー9番のチケット(こちらは正規ルートで7万位)を購入しましたが、ラトルが来なかったため、9番の演奏会は中止となりました。


 それ位、マーラーの9番には思い入れがあるので、地元の交響楽団の9番には失望されました。自分のイメージとピッタリあった音は、『休符のみ』でした。そのため、こんなオケつぶした方がいいよ!県の予算も削減できるし。その分の予算を『サントリーホールのバス代支給』という助成にした方が、文化振興(個人の感性の向上)には役立つよ!と思っておりました。


 そのため、『守らなければなくなってしまうような文化なら、いっそ潰してしまった方がいい』という考えをより強くしました。しかし、今はその考え方が改められています。


 人気のある文化のみを、商業主義を基本にして残すのならば、劣悪なものだらけになってしまいます。高貴な文化を求める人は、少数だからです。


 クラブの営業を深夜12時以降まで延長せよ!という運動が起こっていますが、これはこれでいいと思います。しかし、クラブで発生する音楽だけではダメだと思います。


 例えば、マーラーの交響曲を聴ける人は、クラッシックファンの中でも『コア』な方だと思います。もちろん、質の高い演奏をするオケなら、現在でも商業ベースでやっていけます。しかし、それ以下のオケは、商業ベースで生き残るのは、ほぼ不可能です。そして、商業ベースで生き残れるのは、いずれダンスミュージック位となるでしょう。


 しかし、ダンスミュージックだけでは、人間の感性は向上しません。もちろん、ダンスミュージックを否定する訳ではないのですが、それだけでは不十分なのだと思うのです。


 そして、商業ベースで生き残ることができるクラッシックのオケのチケット代は、とても高額で、大抵5万円は下りません。そのお金を払える経済力と熱意がある人は限られます。そのため、ホールで生音を聞くことができなくなる人がいっぱい出ることになります。よって、その人たちの為に、下手でも生音を出すオケには残っていてもらう必要があります。


 現代は、軽薄短小な音楽が乱立しています。しかし、人間の意識が進化したなら、そのような音楽だけを求めるのではなく、上質な音楽へと嗜好は変化していくでしょう。その過程で、安価な生音を提供してくれるオケも必要なのでしょう。


 それら下手な演奏でも、生の音を聴き込むことで、高価な生音へと嗜好は移行してくのでしょう。延いては、安価な生音のオケも高価な生音を出すオケへ成長していくことでしょう。その時まで、お金をかけても、育て守るべきものもあると考えるようになりました。


 例えば、お金をかけないと絶対に残せないものに、『能』があります。これは日本固有の文化であり、神事でもありました。このようなものは、絶対に消滅させてはいけないと思います。


 能の達人になると、役になりきってしまうため、平静にしているにもかかわらず、心に描いた情念故に、血圧が220にも上がると、以前、NHKのスペシャル番組で見ました。これこそ、意識の錬磨の結果であると思います。


 このような舞台を堪能できるものも、意識の錬磨がなされていないと、その想いは伝わってこないのだと思います。両者が切磋琢磨することにより、培われていくものが、文化なのでしょう。そして、没個性化してしまい・固有の文化が存在しなくなった世界は、無味乾燥なものになると思います。


 それですので、民族や地域に根ざした固有の文化は、人類の遺産として残すべきだと思います。現時点で、その価値を正しく認識できなかったとしても、過去にそれが評価されたように、いずれそれを評価できる意識に、また戻っていけるのだとおもっていますので。


 上手い・下手だけで演奏を評価(プロの演奏に関してのみ)していた自分は、未熟だったと思います。今後は、守るべき文化は、観客として援助していきたいと思います。



 2012/06/21(木)


意識は高められると思います。意識的にではないですが・・・



 意識は高められると思います。しかし、直接的には無理です。間接的に高めることが可能なのだと思います。


 例えば、心臓の鼓動を『速く』しようとして、『直接的』には速くはできません。どんなに念じても無理です。しかし、例えば走るという行為を「直接的」に選択することにより、『間接的』に速くすることはできます。


 その反対に、低くすることはできるでしょうか?これも、先ほどよりは難しいですが可能です。


 例えば、体を鍛える・精神を落ち着かせる・たばこをやめる等の行為を「直接的に選択」することにより、『間接的』に低くはできます。意識の問題もこれと同様なものだと思います。


 意識を高くしようとして、意識自体を直接的に「高く」することはできないのだと思います。これは、自分の体を、自分の手を使って、持ち上げるようなもので、決して上げることはできません。(滑車などを使うのは、間接と見なします。自分の手を足の下に持っていき、持ち上げる形を直接と定義します。)


 意識を高くする方法は、知性・感性・意志・体力を「直接的」に高める事により、『間接的』に高くなるのだと思います。瞑想やヨガにより「直接的に」意識に働きかけることが可能なのかもしれませんが、この方法は、積み木を高く積み上げる行為に似ていて、ちょっとした力で直ぐに崩されてしまうと思います。


 知性・感性・意志・体力を「己の力」で「直接的に」高める事によって、引き上げられた『意識』は簡単に脅かされることなく、かつ、聖なるヴィジョンにつながるのだと思います。その域に達したのなら、全てを『是』として受け入れられる事になると思います。


 知性・感性・意志・体力の高め方は、様々なノウハウが・それぞれの分野で確立されているため、それらを学び・実践するのでよいと思います。


 しかし、まず始めに、私がお薦めしたいのは、『奇跡講座のワークの実践』です。


 このワークを通して、物事を見られるようになるにつれ、選択する嗜好が変化していきます。その意識下で選択した、知性・感性・意志・体力を高めるノウハウを行うことで、意識は間接的に高まっていくのだと思います。


 例えば、ダイエット一つをとっても、『他人の目』が動機ではなく、『神の創造物としての自分の本来の美しさに至るため』という動機に変化した場合、張りぼての美しさではなく、その人の年齢等に似合った本来の美しさになっていくのだと思います。


 私は今、奇跡講座のワークブックを原書(英語)で読んでいます。理由は、「日本語では意味がよく分からなかったため」と「イエスの言葉を、その言葉のままに理解したい」という理由からです。それなので、英語を勉強しているという意識無くして、英語の勉強にもなっています。


 奇跡講座の原書を買おうと思ったのは、奇跡講座の日本を読んでいたからでした。公認版ですが、それでも「よくわからない」部分がありました。「原書ではどのように書かれているのだろう?」という思いから、原書を買いました。あくまでも、『奇跡講座の理解』が動機です。その動機のままに進んでいたら、生涯の中で、できないものの上位に位置している『英語』が理解できつつあるのです。


 これが、世に広まっている引き寄せの現れ方だと思いますが、『お金』や『健康』を動機とした引き寄せはあまりよくないと思います。意識を高めたいという想いによって引き寄せられてくる事柄が、あなたにとっての最善なのだと思います。


 そうして起こされた引き寄せを、どんどん行っていくことによって、あなたの意識は加速度をつけて高められていくのだと思います。


 『なぜ、意識を高める必要があるの?』という質問はなさらないでください。それは、神の創造性を付与された存在として行う、もっとも崇高な創造行為だからです。それ以上の創造はないと思います。



 2012/06/28(木)


 私は議論をするのが好きでした。しかし、最近はしないようにしています、意識的に・・・



 私は、議論をするのが好きでした。対等な立場から、物事をよくするためにする議論がです。しかし、最近は意識的に議論にならないように注意しています。


 なぜ、そのようにするようになったかと申しますと、議論の背後には『価値判断が存在する』という事からです。


 なんの事やら、よくお分かりいただけないとおもいますので、簡単にご説明します。


 私は、技術系の仕事をしています。それですので、技術的な議論においては、『真・偽』が付くものに出会う事があります。しかし、このような問題についても、極力口を挟まない様にしています。


 まして、技術的な問題ではなく、政策的な問題に関しては、『議論の対象となるもの』が多数存在します。その他、趣味嗜好に関するものでも、多くのそのようなものが存在します。


 政策的な問題はともかく、趣味嗜好においては、決して『真・偽』はつきません。議論になった場合、双方が不快になるだけです。


 技術的な問題についても、『技術的にはそうだけど、そもそもそれは本当に必要なことなの?』という『政策的な投げかけ』にも発展しうるため、不快な体験への火種になる可能性があります。


 もちろん『ことなかれ主義』を標榜しようという訳ではなく、『無駄な議論はやめましょう』ということを言いたいのです。


 社会の中では、階層構造になっているため、上司の判断に従わなければならない事はよくあることです。あなたが例え正論を言ったとしても、上司の方の意志決定が尊重されるのです。それなら、無駄な議論はしない方が、お互いのためになります。


 『そんなことを言っていたら、世の中はよくならないじゃないの!』というお叱りがくることは十分に理解しています。しかし、社会をよくする責任はあなたにはありません。あなたに責任があるのは、あなたをよくすることだけです。


 外から変えるのではなく、自分を変え、自分が変化の中心になれば良いのです。そのような人が増えていけば、自然と社会はよくなるはずです。


 悪い情報に興味を引かれるかもしれませんが、そのようなものは見ない方がよいです。消費税が上がろうが、小沢は本当は正義ではないとか、ハシズムが問題だとか言っても、あなたの半径1kmの生活には、ほとんど影響はありません。


 遠くの大きな出来事よりも、近くの小さな出来事の方が影響は強いのです。2つの物体の間に働く力は、距離の二乗に反比例します。そして、もっとも自分の近くにいるのは自分の意識であり、もっとも遠くにいるのは闇の支配者なのでしょう。


 闇の支配者が告発されるか・そのまま増長するかは定かではないですが、どちらにしても、あなたの生活には特に影響はないでしょう。警察が彼らの手足となって働くとしても、近所の交番のおまわりさんはあなたを捕まえには来ないでしょう。


 消費税が20%に上げられたとしても、経済が崩壊するなら、それも誤差範囲です。しかし、経済が破綻する可能性は非常に高いのです。


 そのとき意識に問題を向けてこなかった人は、途方に暮れることでしょう。しかし、自分の意識にのみフォーカスし続けてきた人は、平静を保っていられるはずです。それですので、無益な議論や無駄な情報を収集し不安になるのではなく、あなたの意識にフォーカスして、それを向上させることを考えた方がいいと思います。意識の向上の方法は、ここをクリックしてください。



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