2012年2月

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 2012/02/16(木)

 生きる事の秘訣は「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、『本当の自分』は死なないとさとること」だそうです。


 
 生きる事の秘訣は「(肉体が)死ぬ前に死ぬこと」であり、『本当の自分』は死なないとさとること」だそうです。エックハルトトールさんの「パワー・オブ・ナウ」にあった言葉です。


 映画『Thrive』の内容を何の問題もなく、理解できる人は、まだ多くはないでしょう。この映画を容易に理解でき、かつ、『2012年の問題』や『様々のスピリチュアルリーダー』の発言なども網羅している人は、もっと少ないでしょう。しかし、このレベルまで関心の輪が大きくなると、『現実生活との乖離』が起きてくる可能性が高くなると思います。


 物事には、『関心の輪』と『影響の輪』という物があります。関心の輪とは、文字どおり「あなたが関心を持っている輪」のことです。その輪の中に、『影響の輪』という物があります。影響の輪とは、関心の輪の部分集合で、影響の輪の中の内、自分が『影響力を行使できる範囲』を意味します。


 『真理の探究』や『真実の追究』は、この『関心の輪』を大きくする活動です。


 真理を探求することは大切ですが、真実を追究することに没頭すると、盲目になってしまいます。真理は自分の『影響の輪』の中にありますが、真実は自分の「『関心の輪』∩『not影響の輪』」の中にあるからです。真実の真偽の確認は永久に取れません。取れたとしても、幸せにはなれません。


 例えば、3・11の真相を究明しても、『恐怖感』や『無力感』だけが触発されるだけなら、真実を追求することに「意味はない」のです。政治の先行きを懸念しても、なるようにしかなりません。FRBが糾弾されることになるかもしれませんが、それはそれとして、私たちは私たちの現実を生きる必要があります。30年後の内部被曝の影響を心配しても、地球がそれまでに滅んだとしたら意味はないのです。


 では、私たちの現実とはなんでしょうか?


 それは、私たちが『今現在どのように感じているか』ということに集約されると思います。あなたが、今、『愛・平和・喜び』を感じていたとしたら、それはあなた自身であり、真理だと思います。『怖れ・欠乏感』を感じているとしたら、それはあなたのふりをしたエゴが投影する幻想だと思います。


 『全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の意味があろうか』


 とイエスは言いました。これは、真理だと思います。ファイナンシャルエリートが全世界を手に入れつつあります。(それに対抗する勢力があるとも言われていますが、真偽の程はわかりません。)彼らは、本当に全世界を手に入れるかもしれませんが、彼らは人として生きていません。欠乏感のみを動機とし、エゴとして生きているだけです。


 私たちは、彼らの仮想現実に付き合う必要はありません。「エゴとしての自分を殺すこと」が、生きるためのスタートラインだと思います。そして、私たちは肉体を超えた存在でもあるのですから、『本当の自分』は死にません。


 全てが潤沢にある世界を思い浮かべ、その世界でやりたいことを、今から始めることが大切だと思います。ボジティブの波動を出し続けることで、あなたのエゴも周りのエゴもしぼんでいくことになると思います。


 運動に参加しなくても、世界平和には貢献できます。あなたが、平和であるなら、あなたの『影響の輪』の中は、少なくとも平和です。敵を殲滅しない限り平和が訪れないと考えるのでは、永遠に平和は訪れません。


 世界に変化を望むなら、あなたがその変化になれとカンジーは言いました。平和は自分自身から始まるのだと思います。また、禅の言葉では、焼甎打著連底氷(しょうせんはたじゃくす、れんていのこおり)っていうのがあります。これは、同じ事を言っている気がします。


 まずは、自分が平安であることがスタートなのだと思います。



 2012/02/09(木)


 魔法の言葉です。「It is not my business. It is not your business.」



 3.11の直後、ACのCMで「魔法の言葉で~・・・・楽しい仲間と~ポポポポン!」というのが何度も流されましたので、ご記憶なさっている方も多いと思います。


 その後、ニコニコ動画では、変に進化したアンモナイトのように、様々な動画が作成されました。とっても良くできていますので、是非見てください。


 今日お伝えしたい内容は、『魔法の言葉』です。ACのコマーシャルでは「あいさつ」がそれだと言っています。これに異論はありません。


こんにちは(こんにちワン)
ありがとう(ありがとウサギ)
こんばんは(こんばんワニ)
さようなら(さよなライオン)
まほうのことばで
たのしいなかまがポポポポ~ン
おはよう(おはよウナギ)
いただきます(いただきマウス)
いってきます(いってきまスカンク)
ただいま(ただいマンボウ)
ごちそうさま(ごちそうさマウス)
おやすみなさい(おやすみなサイ)
NA あいさつするたび ともだちふえるね
♪AC~


 しかし、「あいさつ」が魔法の言葉だとしても、それで「ともだち」になれない人もいます。例えば、こちらから挨拶したのに、無視する人がいるとします。そのような人とは、コミュニケーションを取ることが難しいと思います。


 ただ、挨拶を返してもらえないとしても、「腹立つねー」と言って相手を裁いてはいけません。裁きたくなった時は、冒頭の「It is not my business.」と心の中で念じて、受け流しましょう。


 また、あなたがやっている事に対して、「やめた方がいいんじゃないのー」とか無責任な批判をしてくる人もいると思います。そんな時も、「It is not your business.」と心の中で念じて、受け流しましょう。


 これは、事なかれ主義を標榜しよう!というものではありません。「あなたが大切にしたいことにフォーカスしましょう!」ということを言いたいのです。


 例えば、3.11に対して、色々な意見があります。震災を食い物にしようとしている政治家やゼネコンがいます。彼らがやろうとしていることは、よくないことかもしれませんが、彼らを批判していても、どーにもなりませんし、かつ、その善悪の判断自体、間違っているかも知れません。


 ですから、そんな無益なことはやらず、意味のある事をしましょう!と言いたいのです。


 アメリカは世界の正義として、イラクに攻め込みましたが、大量破壊兵器はイラクにはありませんでした。アメリカ自身の論法で言っても、イラクへの攻撃は不正義そのものです。でも、誰かの論法に照らし合わせてみたら、それですら正義になってしまうのです。


 正義・不正義を議論することは、現状への評価を議論するということだと思います。色々な情報を得れば得るほど、正確な判断ができるでしょうが、情報にはキリはありません。全てをわかってから判断しようとしていたら、今いる場所から一歩も動けなくなってしまいます。


 わからなくても、良いと思える方向へ進むことが大切だと思いのです。その時、大切になるのは、冒頭の「It is not my business. It is not your business.」という姿勢だと思います。


 自分が良いと思う方向へ進み、それに対して誰かが何かを言ったとしても、It is not your business.と言って無視する姿勢です。また、他人の不正義や怠惰を認めたとしても、彼の尺度の中では正義なのでしょうから、それについてもIt is not my business.と言って、無視すべきです。


 原発は危険だからやめた方が良いでしょう。しかし、原発反対といって運動に参加しても、原発はなくなりません。それより、フリーエネルギーの開発に関心を向けるべきです。調べれば色々な方策があります。それを世界に知らしめる運動に参加する方が、原発反対運動に参加するより、理想の実現には近道でしょう。



 2012/02/03(金)


  「死人の世話は死人にさせておけ」ってイエス様は言ったんですよね。厳しいと思いますか?



 冒頭の言葉は、イエス様の弟子が「父が亡くなったので、葬儀の準備に行かせてください」と許しを請うたときに、イエス様が言われた言葉です。


 聖書を読んだことのない方は、この意味がよくわからないそうです。最初に出てくる「死人」は父であることは明確ですが、次につながる「死人」は誰なのかが疑問なのだそうです。


 この答えは、ここ数日書いてきた「食って・飲んで・出す」だけの人のことをいいます。「霊的な成長」などどいう観点で人生を見ることができない人達のことです。


 今の世の中には自称「スピリチュアリスト」が多数います。現実逃避の策として、宗教やスピリチュアルリーダーを「利用する人」です。自分の霊的な成長や裁きから逃れることのみに「固執」し、実体としての生活や心のあり方等に重きを置かない人です。これらの人も、「死人」と言えるでしょう。


 スピリチュアルという言葉さえ聞いたことはないのに、極めてスピリチュアルな生き方をしている人もいます。


 例えば、「心身共に錬磨された武道家」「刀を抜かない為に修行をする武士」「合気を目指す武道家」「もてなしの心を極める茶道家」「飽くなき美を追究する陶芸家」「花器の中に宇宙を創造しようとする花道家」「他と競うという呪縛から解放されたアスリート」などです。


 この反対にスピリチュアルを信奉するのにスピリチュアルから遠い人もいます。


 例えば「速くアセンションする方法を探るアセンション信奉者」「真理は過去のリーダーからしか来ないと考える宗教家」「この世は幻想としか考えられず、この世の生活をおろそかにし、あの世へ心を馳せる人」「肉体よりも心、心よりスピリットが大切(ある面それは本当ですが)と考え、肉体をおろそかにする人」などです。


 両者とも十分ではありませんが、後者より前者の方が「目覚め」に近いと思います。


 「苦労」や「困難」のない人生を多くの人が望んでいます。しかし、それらなくして「悟る」ことは難しいでしょう。ですが、苦しんだ人が「誰でも」悟れる訳ではありません。その苦を単なる苦と捉えず、そこから何かを吸収しようとする生き方が必要です。そのような生き方が「スピリチュアルな生き方」なのだと思います。


 意味は状況によって決定されるのではなく、私たちが状況に与える意味によって、私たち自身を決定するのだ。 アルフレッド・アドラー


 苦は自分が「これは苦である」と認めない限り、苦ではありません。成長の過程では、苦以外のものとして見る事ができないとしても、それを次へのステップへと活用できたとき、その「苦」は単なる「踏み台」へと変わるのでしょう。


 この時大切なのは「あきらめない」姿勢です。つまずいたとしても、倒れたとしても、また立つ必要があります。仏教の教えでは「あきらめ」が説かれますが、これは「固執する事なかれ」「流れに任せよ」ということを言っているのであり、「捨て鉢でいい」ということを言っているのではありません。


 子どもを失った母に「子どもの亡骸」と「子どもへの固執」を手放すように、仏陀はその母に『とある課題』を出します。その母親はその『課題』を、失った子供を取り戻すために必死で遂行します。


 しかし、その過程で『無常』を悟り、子どもへの固執を手放す様になるのです。仏陀は、諭しませんでした。母親が自ら悟る機会となるべき『課題』を与えただけです。私たちに起こる「苦しみ」もこれと同じ、『悟るために与えられた機会』と捉えることはできないでしょうか。


 意味は状況によって決定されるのではなく、私たちが状況に与える意味によって、私たち自身を決定するのだ。 アルフレッド・アドラー


 無常を受け容れられた母は、ぬくもりを思い出すことができるでしょう。愛しさと暖かさと娘の重さをスピリットに永遠に刻み込み、かつ、『真の愛を悟れた人生最高の機会だった』と、その「状況」に「意味」を与えられると思うのです。様々な状況に意味を与え続けることによって、あなた自身が段々と定義されていくのです。これが、創造の最前線にいる私たちの仕事なのだと思います。


 私たちは、誰かのコピーになるために生まれてきたわけではありません。コピー元がイエスや仏陀であったとしても、同じだと思います。イエスや仏陀の教えを、自ら、自分の人生として表現することを、イエスや仏陀も望んでいると思います。


 聖書を何度読んでも・写経を何枚書いても・教典を沢山研究しても、自分がその人生を生きなければ、それらの行為は「無駄」です。それらの行為は宗教的には、善行とされるかもしれませんが、イエスや仏陀はそんなことはしていません。彼らは、自らの人生を生きる中で、自ら悟っていったのです。もちろん、宇宙的な背景から背負ってきた使命はあったでしょうが、イエスは仏陀も「努力して」「苦悩して」それらの秘密を「解明した」のです。その人達をただ単に崇拝するのは、彼らに失礼です。


 焼甎打著連底氷(しょうせんだじゃくす、れんていのこおり)


 この意味は、ググっても出てきませんので、わかる範囲で解説します。焼甎とは「焼けた石」、打著とは「とかす」、連底氷とは「南極のような氷」とお考えください。焼甎とは、イエスや仏陀のことと思っても差し支えないと思います(本来の意味は、悟ろうとする熱い思いです)。連底氷とは人間の苦悩とお考えください。


 偉人の教えは、今なお人類の苦悩を溶かし続けているのだと思います。彼らが到達してくれたおかげで、私たちも『そこ』にたどり着きやすくなっているのです。人類共通の『苦悩」という「連底氷」を、共に溶かせるものになれるのです。死んだ者ではなく、生きた者として生き、連底氷を共に溶かせるものになっていきましょう。



 2012/02/02(木)


 「何で生きてるんですか?」と質問されたら、あなたはなんて答えますか?



 「何で生きてるんですか?」と質問されたら、あなたはなんて答えますか?


 この問いは、色々な意味に解釈することができます。「何のためにという意味ですか?」という風に捉える方もいれば、「なに?俺には生きてる意味がないって言う意味かぁ?」と切れる人もいると思います。しかし、このような方は、先の質問には色々な解釈の仕方があるということを認識していると言えます。


 それに対し、「愛ゆえに」「食物で」「肉体で」「意識で」「仕事のため」「お金のため」「SEX」等々、最初から答えをお答えになる人もいるでしょう。このような方は、生きるという事に対して、ある信念を持っていると言えると思います。


 どちらがいいという事ではありません。兎に角、この問題について「考えられること」が大切です。「生きているのは名ばかり」の人は、考える事すらできないでしょう。そのような人は、食って・呑んで・出すだけで、何も考えません。そのような方は、一度死んだ方がいいかも知れません。愛を込めて・・・。


 食って・飲んで・出すだけに甘んじ、かつ、誤った方向による無駄な努力によって、自己有用感というエゴを見たそうと言う人が、サラリーマンのほとんどでしょう。具体例をあげると以下のような人です。


晩酌が唯一の楽しみのくせに、運動もしないため、メタボになり酒量を減らす羽目になる人。(飲むのを選ぶのか、生きながらえるのを選ぶのかはっきりしろ!)


同僚より「ものを知っている」ということを誇るひと。(ただ、経験が長いだけなのに・・・。あなたが優秀なわけではありません。)


「会社名」という虎の威を借り、取引先(下請け等)に横柄な態度を取るひと。(悲しいかな、ああ感違い・・・)


資格を持っているということを誇る人。(そんなもの誇るものではないでしょ?勉強すれば誰でも取れるよ資格試験なんだから。選抜試験じゃないんだから。)


「誇りたい」がため、資格を取ろうとする人。(動機が間違っているでしょ?何かをやるためにとるものでしょ資格は。)


 あなたが、これらのどれかに該当するなら、そんな生き方は改めた方がいいでしょう。くだらない生き方です。また、自分はそれに該当しないが、周りはそんな人達だらけという人は、サラリーマン生活に多大なストレスを感じることになるでしょう。


 後者の方に対して言いたいのは、「周りは捨てておけ!」ということです。船が沈没し、難破した時、周りの人を助けようとすることは尊い行為かも知れません。しかし、自分も死に相手も死ぬようになるのであれば、『あなたが生き残るべき』です。


 以前、このような状況にあった時、クリスチャンの神父or牧師さんが、自分の持っていた救命胴衣を持たざる他の放流者に渡したそうです。クリスチャンは死に、他の放流者は助かりました。美談として語られますが、サンデル教授レベルの卑近な功利主義の論理をもってすれば、間違った行為に当たるかもしれません。


 人の命には優劣はないというのはある種の理想的幻想ですが、『より多くを救う為に生き残った方がいい命』というのもあるはずです。価値があるとかないではなく、優先度の問題です。早く措置をすれば、救える命は多くあると思うのです。早くしないとそれらの命は、今回(2012年)の成長の機会を逃し、すごろくを最初からまた始めなければならなくなります。


 例えば、そのクリスチャンが「イエスの生まれ変わり」であり、かつ、他の放流者が「女子高生コンクリート詰め殺人事件の主犯」であった場合、イエスの生まれ変わりが生き残った方が、目覚める人(救われる人)が多くなるはずです。


 私は、優生学や選民思想を推奨する者ではありません。彼らの対極にいると思います。しかし、多くの人類は「その中間にいる」のです。その人達には、自ら目覚めこちらへ歩んで来て欲しいと思います。怒りを想起するような言葉を使うのは、その方が気がつきやすいと思うからです。もし、本日の記事を読んで頂いて、怒りを感じて頂けたら、私の勝ちです(本当は、勝ち負けなどはありませんが)。



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