2012年8月

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 2012/08/02(木)


 自我と肉体からの解放が私たちの目標では?



 以前以下の表をブログで記載しました。この中で最も大切なものは第Ⅱ領域の事柄です。

 緊急である緊急でない
重要であるⅠ領域Ⅱ領域
重要でないⅢ領域Ⅳ領域

                元記事


 しかし、『この第Ⅱ領域を達成するのに、どれだけの時間を要するか?』という縛りを設けることで、内容が変化することがお分かりいただけることと思います。


 人によっては、1年でしょうし、他の人は一生かも知れません。どの位の期間を設定するのが適切なのでしょう?


 世の親は、「勉強しなさい!」と子どもを叱咤しますが、大学をしても働かずに勉強を続けたら、「いい加減働きなさい!」と言うでしょう。教授職も一応仕事とします。


 この場合、親の「勉強するのに適切な期間」というのは、20~28歳位だと思います。しかし、勉強はそれ以上の期間するべきものです。


 『今日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい』とガンジーは言いました。これは真実であり、勉強は永遠にするものだと思います。成長という意味での学びですが。


 では、勉強とは何のために行うものなのでしょう。先ほど、『成長という意味での学び』ということを言いました。勉強と成長は置き換えても良い内容でしょう。


 では、『何のために成長する』のでしょう?


 宇宙は現在の宇宙論でも膨張し続けると考えられています。成長する星もあり、消滅する星もあります。宇宙でさえ、生まれる宇宙もあれば、消滅する宇宙もあることでしょう。


 これは、宇宙は成長を続けている、という事につながると思います。


 これは、真実だと思いますが、この銀河系を越えたレベルのお話までを含めると、話がまとまりませんので、この銀河系を中心にお話をしたいと思います。


 私たちは肉体をまとっています。宇宙人に遺伝子操作で作られたとしたら、彼らも肉体をまとっている事になります。


 普通の人は、『肉体こそが己』と考えますが、これは主従を取り違えた考え方だと思います。


 本来は、あなたの中の『光』こそが、あなたなのだと思います。『光』とは『あなたの意識を無限に成長させたもの』とお考えください。


 この『光』が何かしらの影響を受け、振動数を下げることによって生まれたのが、肉体なのだと思います。


 お釈迦様が、『五蘊盛苦』と言われたのは、「肉体を纏うこと・自我を纏うことこそが苦」ということ簡潔に表現されたのだと思います。


 肉体は兎も角、『自我が苦』という考え方は受け入れがたい方もいると思います。自我という単語は、日本語では良い意味でも・悪い意味でも使われますので。しかし、英語に直訳するとegoです。エゴ。


 エゴと言われれば、誰もが悪いものと思われると思います。エゴでも自我でもどちらでもいいのですが、これを持つことが諸悪の根源なのだと思います。


 「でも、自我を失ったら自分ではなくなっちゃうんじゃないの?それが、その人の個性でしょ?」


 と言われるのは承知していますが、自我(ego)を抜き捨てても、あなたはあなたではなくなりません。ただ、本来のあなた(光)になるだけです。


 ゴミにも個性はあるでしょう。しかし、ゴミの個性を尊重する人はいません。もし、尊重するというのであれば、そもそもゴミではないはずですから。


 陶器が粉々に割れてしまったら、それはゴミでしょうが、その粉々は多分尊重されないでしょう。ですが、割れる前の陶器は大切にされるでしょう。


 この粉々の陶器から、本来の陶器に戻る課程が、成長なのだと思います。言葉を換えれば、救い・救済と言えるでしょう。


 イエスの磔とその復活を信じたとしても、救済はされません。イエスの教えを体現するものが、救われるのです。


 そして、救われたものが・又は救われるつつあるものが、その後・その課程の中で世界を変容させることが、この世界の救いなのだと思います。


 このブログを最後まで読まれた方は、救済に近いと思います。言葉を返せば、私も救済に近いという事になりますが、傲慢ではなく、それは事実です。


 わたしは、奇跡講座によりイエスから直接教えを請うています。それですので、神からの導きも来ているのだと思います。それですので、このような考えが言葉として表れてきているのだと思います。


 自我を脱ぎ捨て、肉体に固執せず、肉体を活用しながら、自分と世界とを光へと導いていくものとなりましょう!



 2012/08/09(木)


 『目標とは、達成すべき結果にしか過ぎない。大切なのは、それに至る過程であり、それ以降の成長である。』と思います。



 『目標とは達成すべき結果である』と言ったのは、スピードスケートの清水宏保さんです。


 そんな考え方じゃ辛いだろう!?と思っておりました。しかし、今は『あの考え方は、間違っていますね!』と言えます。


 その考え方を修正し、利用可能な形に変えたのが冒頭の言葉です。


 『目標とは、達成すべき結果にしか過ぎない。大切なのは、それに至る過程であり、それ以降の成長である。』


 なぜ今この言葉を再度考察することになったかと申しますと、それは、ロンドンオリンピックが開催されているからです。


 柔道界と参加選手が『お家芸で初めて金が一つもとれなかった・・・』と詫びていました。しかし、謝る必要はありません。選手が自分のために、オリンピックに出場したのであればです。そして謝られた私たちに彼らを責める権利はありません。


 オリンピック選手の多くが金メダルを目標にしてきたはずです。その人にとっては、金以外は無価値かも知れません。しかし、目標を同じくしていたのにメダルさえ取れなかった人は、もっと悔しいはずです。


 確率で言えば、獲れない人の方が多いのです。それらの人の気持ちを全て『無念・・・』だけで終わらせてしまうような大会であるのなら、オリンピックなどない方が良いと思います。


 オリンピックで金を獲れなかったとしても、それまでに流した汗と涙は貴重なものであり、その選手の血肉となるべきものです。それを挫折感と虚無感のみにしてしまうなら、その選手のその競技に対する取り組み方が間違っていたことになると思います。


 その選手があきらめない限り、失敗は失敗ではなく、次へ向けての経験の一つのはずです。また、直ぐにそのように思えないとしても、徐々にそのように気持ちを切り替えていくべきです。


 スポーツをきっかけとして、このことを述べましたが、このことはその他のどの分野でも適用可能ですし、人生そのものをそのように捉える必要があります。


 『あんとき、~しなかったなら、俺は・・・・だったのに』とか『あんとき、~してくれたら、私は・・・・できたのに』とか色々な後悔が人生には付きものです。


 しかし、そのようなことを思ってもどーにもなりません。


 覆水盆に返らずは正しいですが、もし水を盆に返らせることが出来るとしても、『覆水盆に返らせず!』という能動的な気持ちですべてを受け入れるべきです。出来れば感謝しながらにです。


 そのような心持ちで生活することが出来れば、目標など単なる目印に過ぎなくなります。その結果に固執することなく、人生を楽しむことが出来るはずです。


 そして、その結果を素直に受け止め、それを糧に成長していけると思います。


 これがこの冒頭の言葉についての私の考え方です。ノルマを課せられている人や心的ストレスを感じている方は、この考え方を活用して欲しいと思います。



 2012/08/27(月)


 言ってることとやってることが違う人は弱い人だと思います。自分もその一人ですが・・・



 言ってることとやってることが違う人は弱い人だと思います。自分もその一人ですが・・・


 ガンジーは、『The weak can never forgive. Forgiveness is the attribute of the strong.』と言いました。翻訳すると『弱い人は赦すことができません。赦すことは、強さの証なのです。』となります。


 これも真実だと思います。それと同じように、先の言葉も真実だと思います。


 『言ってることとやってることが違う人は弱い人です。』


 でも、このような人は多いです。人の上に立つ人に特に多いです。本音と建て前を使い分ける人です。


 ですが、言ってることとやってることが合致していても、愛がなければ、それも意味がありません。


 昔あった、『時計じかけのオレンジ』という映画で描かれていた若人達は(今で言えば渋谷でたむろしているような若人です)、言ってることとやってることが一致しているかも知れません・・・


 しかし、彼らは、人の痛みもわからないし、人を赦すことも出来ないと思います。本音と建前が一致しているという点では、素直な人たちを言えるでしょう。ですが、素直であっても心に光がなければ意味がありません。


 また、人の上に立つ人であり、かつ、光の知識や言葉を述べ伝えているのに、本音と建て前を区別する人は、素直でもないし強くもありません。


 イエスは天国に入るためには、幼子のような素直さが必要だと説きました。素直さは全ての始まりのような気がします。しかし、幼子は素直ですが残酷です。


 私は、子どもの頃、赤とんぼの羽根をちぎり、どれ位短くても飛べるのか実験しました。また、ミミズはちぎられても再生すると聞いたので、砂遊び用のシャベルで微塵切りにしてしまいました。


 このように、子どもは素直ですが、残酷です。時計じかけのオレンジの少年達や渋谷のチーマー達は、素直かも知れませんが残酷です。この残酷さは、回りから愛を示されることで、成長と共に消えていくものでしょうが、愛を示されない環境では、大人になっても残るものでしょう。よって、親や環境は、成長の過程で、子ども達に愛を与えることが大切だと思います。


 素直であり、成長の過程で愛も知った後は、愛を実践することが大切です。愛を語るのではなく、実践するのです。ですが、愛を語りはするが、実践しない・出来ない人は沢山います。自分も含めてです。


 少なくとも自分の語るレベルの愛は示さなければならないと思います。示さない・示せないのだとしたら、それが罪になるのだと思います。


 先日、罪とは、やり方が分かっていて、道具も完璧なのに、弓で的の中心を外す行為だと教わりました。エハン・デラヴィさんのDVDでです。


 知らないことで裁かれる事はありません。自分の知っていることで裁かれるのです。裁くのは、神でも他人でもなく、的を外していることを認識している自分自身です。


 罪を犯したことを反省し、より良くなって行くには、まず的を定めることと、その次ぎに弓を射ることが必要となります。


 的を定めるとは、『求める自分像を設定すること』です。そして、弓を射るとは、『それに向けて自分の心と言葉と行動を聖別すること』だと思います。


 成長に伴い、目指す的はもっと遠くとなり、もっと小さくなっていくことでしょう。しかし、最初は近くの大きな目標を設定し、それを射ることから始めることが大切なのだと思います。


 私は今日、一つの的を射ることが出来ました。それは、ここ2年位克服できない内容でした。それを打ち抜くことが出来ました。それがうれしくてこの記事を書きました。自分への戒めと何方かの参考になればとの想いからです。



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