2012年7月

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 2012/07/04(水)


 『Respect me!』とか『感謝してよね!』とかいう発言は、「ちょっとおかしいかなぁ」と思います。



 『Respect me!』とか『感謝してよね!』とかいう発言は、「ちょっとおかしいかなぁ」と思います。


 『Respect me!』という発言は、私の好きな総合格闘家であるヴァンダレイ・シウバ選手が、いがみ合っていた選手を突き飛ばしながら言った言葉です。


 Respectは、日本語でいうと『尊敬する』という意味です。「尊敬する」という動詞を『命令形で使うものか?』とその時感じました。


 『感謝してよね!』は、私がかつて家内に言った言葉です。私は、子育ても積極的に関わってきましたし、専業主婦の家内に対しても「辛かったら寝ていて良いんだからね」と言ってきました。それに関して、冗談半分に言ったのが『感謝してよね!』という言葉です。


 実際、家内は自分に対して感謝してくれています。しかし、『感謝してね』という言葉は、絶対におかしな発言です。


 例えば、競馬・パチンコに明け暮れる飲んだくれDV亭主が『感謝してよね!』と家族や奥さんに言ったら、絶対におかしいですよね。普通の感覚で言ったら。


 しかし、その亭主と自分は『全く同じ』なのです。理由は、「ただやりたいことをやっている」という点において。


 私は、子育てにおいても、家内のケアにおいても、『やらなければならない事』だとは思っていません。やりたいからやっているというスタンスです。完全には、その境地には立てていないかもしれませんが、少なくとも『そう思って、それらのことをやれる人でありたい』と思っています。


 そう思っている人が、『感謝してよね!』ということは、論理的に成り立ちません。


 『Respect』に関しても、同様なことが言えると思います。尊敬は、相手の自発的な感情が生み出すものであり、他者がそれを強要できるものではないはずです。それですので、『Respect me!』という発言はおかしいのです。


 好きな事をやっているのに、『努力』という言葉も似つかわしくありません。酒飲みが深酒しているのを見て『努力してるねー』という言う人はまずいないでしょう。しかし、私が毎朝10km走っている姿をみて『頑張るねー。努力してるねー』というようなこと言う人がいます。


 加えて、自転車20kmのことやヴィオラのことや、その他諸々の毎日の日課を話すと(すべては家内にしか話してはいませんが)、『頑張ってるねー、努力してるねー』と言われます。しかし、わたしは頑張ってはいません。嫌ならやめてます。やりたいからやっているだけです。「酒飲みが酒を飲むように」です。


 それですので、『Respect me!』『感謝してよね!』『努力』という言葉は、すべて間違っていると思うのです。


 努力しないで、好きな事だけをやるようにしましょう。意識が高ければ、好きな事だけやっていたとしても、決して堕落することはありませんので。


 そして、意識を高めるためには、好きなことをトコトンまで追求するという姿勢が大切なのです。嫌なことを我慢してやっているうちは、開眼することはないでしょう。まず、好きなことに打ち込めていない人は、好きなことを見つけるということを『トコトン』までやってください。



 2012/07/10(火)


 苦手な出来事や人は『組手』または『スパーリング』として捉えられるようになれれば、成長が早まると思います。



 最近、意識の話や、それを高める話をしてきました。意識は、一人の状態では高く保っておくことが容易かもしれませんが、社会生活を営む中では難しい局面もあると思います。少なくとも、自分は難しい事があります。


 どのような時に難しくなるかと申しますと、『相手が低い意識のレベルのまま、自分を操ろうとするとき』です。具体的に申し上げますと、上司が自分のエゴからの要求を自分に強要する時などです。


 以前は、この状態の中で『上司=神』と捉えてしまった上、複数の上司から『矛盾した要求』をなされ・それに応えようとして『鬱』になりました。


 鬱からよくなるにつれ、『正論』によって相手に対応する様になりました。しかし、その場合、『バトル』になります。最近は、無益なバトルを避けるようにしていますので、先に挙げたような状況になったとき、対処が上手くできませんでした。


 正論をかざすとバトルになってしまうし、相手のレベルにあわせると自分の意識が下がってしまいます。それですので、対処に苦慮していました。


 しかし、無難な対応法を発見することができました。その対応法とは、『組手』または『スパーリング』と思って相手・出来事に対処するということです。


 私は、格闘技をならっていました。その動機については、省きますが、極真とグレイシー柔術と合気道(少々)を習っていました。怪我のできない職場へと異動となったため、全てをやめましたが、今でもサンドバッグは殴って・蹴って・組み付いています。


 全ての格闘技において、『組手』や『スパーリング』を行います。これらを行うときは、相手に感謝し、礼で始まり礼で終わります。殴る蹴る、または締める・極める、投げるを行うのですが、相手を恨む気持ちや怒りなどとは無縁です。


 感謝の念を持って、冷静さを保って、これらを行います。


 職場や社会での『軋轢』も、組手&スパーリングと思えば、組み易いものとなることを発見しました。


 軋轢を感じたとき、自分の心の中に、動揺や恐怖、怒りや憤りが生じます。これは、自分の心が『愛・平安』から離れた為に生じたものです。相手は、『組手・スパーリング』として、『自分の弱点=未熟な点』を攻めてくれたのです。


 弱点を克服する方法は、弱点を攻めてもらい、そこへの攻撃に対処できるようになることが、その最短の近道でしょう。そのために、相手は『自分の人生に出現してくれた』のだと思うのです。


 自分がその弱点を克服できれば、相手の攻撃は無益なものとなります。しかし、その相手から物理的に逃げたとしても、自分がその弱点を克服できない限り、相手(人生)は人を変えてあなたを攻撃してくるでしょう。


 人生の中で、同じような出来事が何度も起こるという人がいると思います。DVに苦しんだのに、別れた後、また同じような恋人を選んでしまう、というような人がその一例としてあげられるでしょう。このような人は、DVを働くような人に惹かれてしまうと言う弱点を克服していないのです。それなので、人を変えて、その人は、またDV環境に入ることになってしまうのでしょう。


 人生の中で、同じような環境が何度も繰り返されるのは、その人が越えるべき課題を克服できていないからでしょう。もし、克服できてしまったなら、同じような出来事は、二度と起こらなくなると思います。


 弱点を一つ克服すると、別の弱点を攻められる事になると思います。それを克服すると、またその次ぎ、それを克服すると、またその次ぎ・・・、と自分が『完成』するまで、それが続くのだと思います。


 そして、完成とはキリストの心眼で物事を見る事ができることだと思います。


 この記事で書いたように、嫌な出来事や嫌な人を捉えることができるようになれれば、ストレスはかからないだけでなく、それらの出来事や人を『成長への絶好の機会』として捉えられるようになることでしょう。自分もそのように捉えられるようになるよう、意識を留めて置きたいと思います。



 2012/07/18(水)


 感情を失ったら人間ではありませんが、感情に流されてもいけないです。どんなときでも、意識を高く保つ必要があります。



 人の苦しみが理解できない人は、人間ではありません。ですが、人の苦しみがわかる人でも、その想いに飲み込まれてしまうのであれば、それもよくないです。


 それを避けるために、見て見ぬふりをするというのも、よくありません。正しいのは、人の苦しみを見て悲しく・苦しくなったとしても、恐怖や怒りを持たないようにすることです。


 そのためには、意識をしっかりと保つことが必要です。意識をしっかり保つには、意志と知識とをしっかり保つ必要があります。


 詳細は忘れてしまいましたが、非暴力を訴え続けたガンジーでさえ、『誇りを失う位ならむしろ怒りをもって誇りを保て』と言うようなことを言いました。しかし、実際には非暴力を貫くのです。


 ガンジーは兎も角、非暴力運動に参加した人の中には、心の奥底に『怒りの炎』が渦巻いていた人が居たことでしょう。しかし、尊敬するガンジーの言葉を信頼し、その教えに従ったのでしょう。


 今の世の中にも、理不尽な事は多々あります。


 例えば、先日あった『いじめ暴行殺人遺棄致死事件』において、真実を知れば知るほど、「行政・教育システム」と「加害者親族・一族・それに関わるシステム」に対する怒りがこみ上げてきます。しかし、それに流されてはいけないのです。


 意志の力を活用し、怒りを収めるのです。収める為には、多くの先人たちの智慧が必要かもしれません。それらの教えがあなたの血肉となっているのであれば、それらの知識を活用し、意志の力を補強することが可能になると思います。


 加害者の少年を身体的かつ社会的に抹殺することで、一時的に気が紛れるかもしれません。しかし、そんなことをやってもなくなった少年は生き返る訳ではありませんし、ご遺族の半永久的に続く精神的な痛みが和らぐわけでもありません。


 ご遺族の方の心が軽くなるためには、この事件の関わった加害者とそのシステムが、自分たちの悪行を認め・反省・謝罪することと、かつ、今回の事件を踏まえ同様な問題を潜在的に抱えている人とシステムが、その火種を消すことだと思います。


 感情に対して、感情で対応してしまうと、火に油を注ぐ事になります。相手が感情的であればあるほど、あなたは意志の力を活用し、理知的に対応することが、問題を解決する唯一の方法だと思います。



 2012/07/23(月)


 日本にはユダヤの末裔が流れ込んできたと思います。そしてそれには深い意味があると思います。



 先週の金曜日に以下の講演を國學院大學に聴きに行ってきました。

	◆ 『 月は東に 日は西に 』- 失われた十支族と日本 - ◆
	講 演 : 奈良 泰秀( 神職.NPO 法人「にっぽん文明研究所」代表 )


	『 2012:日本終末論とユダヤの光 』 ◆
	講 演 : エハン・デラヴィ 氏



 両氏の講演ともすばらしいものでした。日本人がユダヤの末裔であることは間違いないことでしょう。奈良先生の講義で、それを確認できた気がしています。そして、エハンさんの講義では、『スターピープルが神々としてユダヤ民族の上に君臨し、彼らをあるプロジェクトのために活用した』ということを確認できた気がします。


 それを踏まえると、そのスターピープルは誰か、どんなプロジェクトがあるのかが次の疑問点をして掲げられます。それについてエハンさんは、明言を避けました。仮説としては言及してくれましたが・・・


 以下はエハンさんの仮説を踏まえた上での私の仮説です。


 まず、神々として君臨したスターピープルとは、惑星ニビルに住まうアヌンナキだと思います。彼らは、地球で金を採掘するために、奴隷として類人猿を遺伝子操作して、人間を作ったのだと思います。それら、人間を調教するため、ユダヤの神々として、ユダヤ民族の上に君臨したのだと思います。


 モーゼやアブラハムを奇跡等を用いて導いたのも、神として自分達を信仰させるためだったのだと思います。


 ユダヤ民族以外の類人猿は、他のスターピープルによる支援や独自の進化をして、世界各国で栄えて行ったのだと思います。


 ユダヤ教からキリスト教が生まれ、それから派生する形でイスラム教が生まれました。これらは一神教であり、これらを信じる人が世界の人口の52%を占めています。これらを信じる人が、現代の西洋文化とシステムを生み出したと言えるでしょう。


 彼ら以外の人類は、アニミズム(汎神論)を信奉していたと思います。様々な先住民族の文化や信仰を見れば、それがわかります。日本もその一つでしょう。それらに対抗するものとして、アヌンナキが用いた用いたのが一神教でありユダヤ教だと思います。洗脳用宗教として。


 私は、ユダヤ教を否定的に見てきました。それは、その律法至上主義からです。イサクの燔祭を求めた神には『愛がない』と感じたからです。そして、イエスを否定し、イエスを十字架にかけたからです。イエスも彼らの律法主義を否定し、神の愛を説きました。しかし、2000年前のイエスの試みは失敗に終わったと私は解釈しています。


 イエスの試みの再現が、『今であり、ターニングポイントは2012年』だと思っています。そして、それの折り返し地点は、『日本』であると思っています。


 一神教も信仰としてのアニミズムも希薄であり、かつ、自己が確立していない国民(日本人のことです)は、もっとも感化されやすい民族と言えると思います。ここで、誰に何を感化されるかが問題となります。


 感化される内容は、『既存のキリスト教ではなく、ユダヤ教やイスラム教徒さえ受け入れる汎神論的な一神教(ACIMでイエスが教えている内容)』であり、『世界や肉体や時間は幻想であるということを認識すること』であると思います。


 誰に感化されるかは、『内なる神の声』だと思います。そして内なる声は、人の口や書物を通して、あなたに語りかけるでしょう。語りかけられている声を聞くには、聞く耳を持つということのみ必要とされます。


 日本から始まる波は、世界に波及し、既存システムを生み出した銀行家・資本家・宗教・王室・政治中枢にまで及び、最後にアヌンナキを解放して終わるのだと思います。


 地球上での変化は、瞬く間に起こると思います。急激な変化は一瞬だと思います。その後、徐々に辺境の地まで広がっていくのだと思います。


 アヌンナキを解放するときは、もう彼らとは別の次元に住まうことになっているかも知れません。


 私は狂っている訳ではありません。ネット上に氾濫する玉石混淆の中から信憑性のある情報と、ルドルフシュタイナーやスウェーデンボルグの書籍群の内容と、ACIMで語られるイエスの教えを総括し、可視化可能な世界の出来事を矛盾なく記述するには、上記のような説明が必要だと思っているだけです。


 これを信じてくれという訳ではなく、社会や学校で認知されてる内容のみに縛られないで、創造性を発揮して世界を総括し、自らを形作って欲しくてこのようなことを書いてみました。


 このようなことを考えているからと言って、浮き世を離れて生活しているわけではありません。普通にスポーツをし、仕事をし、家庭を守りながら、これらのことを考えているに過ぎません。どちらかだけではダメであり、バランスが大切だと思います。


 実生活とのバランスを保ちながら、形而上学を含んだ科学や歴史考察をすることで、宗教を越えた宗教を含んだ哲学を持つことができると思います。哲学は持っているだけでは意味はなく、それを実際に生きることが必要です。哲学者は必要なく、求められているのは実践者です。それも誰かの哲学を実践するものではなく、自らの哲学を実践するものです。


 それを生きるものが増えていったとき、先の仮説が現実のものになるのだと思います。マクロ的な変化は『2012年・日本から』だと思いますが、ミクロ的な変化は『今・ここ・自分』からです。『今』は永遠に続く今であり、『ここ』は可能性としては全ての点を含んだ意味でのここ(量子力学的観点)からです。『自分』とは神と一体となっている自分であり、隣人であり敵までを含みます。


 これが、この世界(全ての次元を含む)が生まれた理由であると思います。



 2012/07/25(水)


 大変なことを大変そうにやり、それの『正当な評価』を求めるのは普通の人なのだと思います。大変なことを、簡単そうにやり『他人の評価も求めない』のが、本物の人なのでしょう。



 大変だ!とか忙しい!が口癖の人っていますよね。しかし、本当に大変なのか・本当に忙しいのかは甚だ疑問です。少なくとも客観というものが存在するなら、誰かと比べたら、大変ではないはずですし、忙しくないはずです。


 しかし、人は、大変さや忙しさを誇るような傾向があると思います。大変で忙しい方が、自己有用感が刺激され、気持ちが良いのだと思います。ですが、大抵の人が、トップの人と比べたら、大変ではないはずですし、忙しくはないはずです。


 年金生活の高齢者でも、忙しい・大変だを口にする人がいますが、多分、勘違いです。そのような人は、壮年期にそのような言葉を多く口にしていたのだと思います。


 引退した身分でも、このような言葉を口にする人は、壮年期においても大変で忙しいという幻想に陥っていた可能性が高いと思います。


 大変だとか忙しいというのは、あなたの認識によるものです。ですから、あなた自身が、大変でない・忙しくない、と言ったなら、大変ではないし・忙しくはないのだと思います。


 これは、そのように思い込めという自己欺瞞ではなく、「どっちにしろやらなくてはならない事があるなら、気楽に捉えて・気楽にやったら!」と言いたいのです。深刻になろうとなるまいと、結果に変化はありません。強いて言えば、深刻になるほど、悪い結果を引き起こすことになるでしょう。それは、深刻になると緊張することになり、視野が狭くなるからです。


 兎角、今の世の中は深刻になりがちです。仮に『私は深刻ではないです。』と言ったなら・・・


 『あなたが、深刻でないのは、あなたが世の中の事をよく知らないからですよ!本当の事を知ったなら、デモに参加しているはずです!』とか、


 『お金は金や不動産に変えておくべきですよ、将来に備えておくべきです!』とか、


 『災害に備えて、シェルターを備えて置くべきですよ!』とか、


 『首になったときのために、副業を始めておくべきですよ、または手に職を・・・』等々、色んなことを言われそうです。


 例えどんなに深刻な状況に陥ったとしても、『運が悪けりゃ死ぬだけ』です。所詮、それだけです。でも、肉体を維持することが至上命題の人にとっては、命を失うことはこの上なく深刻な事なのでしょう。


 私が人生の中で最も『深刻な状況』だと思ったときは、鬱を煩ってた時に、救急車で搬送される娘に付き添った時でした。病院に着いても、痙攣は治まらず、息が止まってた時間が大分長かったように見受けられました。自分の認識ではそのように思っています。


 多分、普通の人なら、大変で・深刻になっていたでしょう。しかし、私は普通ではないため、大変かもしないが深刻にはなりませんでしたし、ただあるがままにその状況を受け止めていました。


 娘の死を予見したときでさえ、平穏でいることができました。冒頭の本物の人が私だという意味で書いたわけではありません。深刻な状況でも深刻にならないこともできるという一例を示したかっただけです。


 運が悪かったら娘は死んでいたと思います。妻が娘の異変に気づかなかったら、私の判断が遅れ救急車を呼ぶのが遅かったら、等々、悪い条件が重なっていたら死んでいたでしょう。


 しかし、娘が死なずに戻ってきたのには、意味があったのでしょうし、その状況に意味を与えるのは自分自身なのだと思います。そして、状況にどのような意味を与えたかによって、自分が逆に意味づけされるのだと思います。


 イエス、ガンジー、マザーテレサ、キング牧師、ネルソンマンデラ等々、本物の人は、大変な状況を普通にやり過ごし、それに対して見返りも求めていなかったですよね。


 彼らが、状況の中に愛を表現したため、彼らは本物の人として定義されたのだと思います。いくら物を手にしているとしても、いくら知識を持っているとしても、状況に愛を投影できない人は、偽物です。


 状況はあなたの胸先三寸で変えられます。そして、どのような状況であっても愛を表現することは可能なはずです。あなたの中に愛があったとしても、表現されなければ『ある』ということは証明されません。別に、証明する必要はありませんけど・・・


 ただ、愛は与えると増加して戻ってくるんですよねー。


 しかし、ここで注意すべきは、『見返りを求めないこと』です。見返りを受けてしまうと、あなたは戻ってくる愛の代わりに、相手の評価を受けることになってしまいます。相手の評価は、良いか・悪いかわかりません。悪いなら不愉快になるでしょうし、良ければ良かったで自惚れてしまうでしょう。それらを受け入れてしまうと、愛が入り込む隙間はなくなってしまいます。


 愛を与えて、あなたの意識の中に隙間ができると、神がその隙間を本物の愛で埋めてくれるのです。これは、実践しないとわからない事ですが、嘘ではありません。小さな事で良いので、試して見てください。


 簡単な例では、散歩の時等に、道に落ちているゴミを誰にも見られないようにし、かつ、良いことをしたんだという自己評価をすることなく、ゴミを拾ってゴミ箱に捨てましょう。すると小さいけれど本物の愛があなたの意識の隙間に入ってくると思います。この積み重ねが、意識の進化なのだと思います。


 外を変えても、その評価をするのは内なる自分です。自分の評価がゆがんでいたら、真実の世界でさえ歪んで見えるはずです。しかし、歪んだものでさえその背後に潜む真実の姿を見ることができれば、全ての状況を完璧と思うことができるはずです。


 状況は完璧です。それが歪んで見えるのはあなたの意識が歪んでいるからです。本物の人は、全ての状況を完璧と思って行動できる人だと思います。



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