2011年9月

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 2011/09/28(水)


「conditinal love」と「unconditional love」について



 これは日本語に訳すと「条件つきの愛」と「無条件の愛」と訳せます。


 ですが、「条件つきの愛」って本当にあるのでしょうか?言っている意味は、「条件」がついた時点でそれは「愛」ではなく、「契約」になってしまうのではないかと思うのです。


 よく一般的に、「勉強したら○○買ってあげる」とか言うそうですが、「???」ってな感じがします。


 そもそも嫌なら勉強する必要はないと思います。また、このように言う親は「あんたのために、言ってあげてるのよ!」と言うのでしょうが、それは親の価値観の上での話に過ぎません。親の思っている「幸せ」が、子どもが思っている「幸せと同じ」とは限りません。


 まず親として、「この子にとっての幸せとは何なのか」を考えるべきだと思います。それが自分の望む「幸せ」の道とは異なっていたとしても、それが子どもの望む道であるならば、それを応援してあげることが「あんたのため」になるのだと思います。


 2011/09/22(木)


 人を赦すべきですが、赦す前に裁かない方が良いです。そうすれば、赦す必要はありませんから・・・ (本文)



 昨日の記事では、話が脱線してしまったので、赦すことに絞って書きます。


 まず、あなたが「crimeの被害者」だった場合、一般的に赦す資格はあなたにあります。犯罪被害者の家族であった場合においても同じです。


 この時、赦して前を向く人と、犯罪者を恨み続ける人とに分かれます。結論から言うと、赦して前を向く方が生産的な人生になります。


 『そんなことをしたら、死んだ家族が浮かばれない!』というご意見が聞こえて来そうですが、実際に、犯罪者を赦すご家族の方もいらっしゃいます。


 NPO活動で紛争地域にボランティアで行っていて、地元の反対勢力に殺された方が以前いました。その方のご両親がインタビューに答えて、次のようなことを言っていました。


 『彼は、信念に従って生きていましたので、悔いはないと思います。彼を息子に持てたことを誇りに思います』


 このような親御さんに育てられたからこそ、お子さんはそのような生き方を選択なされたのだと感じました。


 この犯罪者を赦されたご両親は、息子さんの意志をついで、そのNPO活動に参加すると話されていました。


 その反対に、一生恨み続ける方もいらっしゃいます。それが悪いというのではないですが、恨み続けるということにより、新たに苦しみを生み出すという行為を、その瞬間瞬間に繰り返していることになります。犯罪被害の苦しみを追体験しているのです、何度も何度も・・・。


 あの世の地獄は、初めからあったのではなく、そこに入りたいという人が勝手に入っていると言われています。


 恨み続ける人は、この世に居ながら、あの世の地獄を過ごしているのだと思います。


 次にあなたが、「sinの被害者」であった場合について考えて見ます。ここでのsinは、本来の意味とちょっと違っていて、craimではないがあなたが「悪いことである」というレッテル貼りをしたものを全て含むとします。


 この場合、それが「悪」であるかどうかは、あなたの価値観が判断することとなります。相手の価値観で見たなら、それは「悪」ではないかも知れません。


 このような事は、『単なる価値観の相違』と捉えることが必要です。


 『仕事が遅い!』といってあなたの同僚があなたを裁いたとします。それに対して、あなたが『うるせいタコ!。やることはちゃんとやってるんだから、遅くても良いだろう!』と裁いたとします。


 この場合、悪いのはどちらでしょうか?


 悪い方は、あなたの価値観によって変わります。しかし、赦すことができるのは、裁くという行為を行ったあなただけなのです。


 しかし、彼に対して反感を持ってしまったあなたは、なかなか彼を赦すことができません。また、一端怒りといったエネルギーとして存在してしまったのものは、消し去るのは難しくなります。


 それですので、最初から裁かなければです。このケースで言うならば、『(あなたの価値観で言えば)そのとおりだね~。ごめんね~。もっと頑張って早くなるようにするから。』と答えれば良いのです。


 こうすれば、嫌な気持ちが心に残ることも、赦す必要もなくなります。


 現在問題になっている最大の価値観の相違は、宗教間の価値観の相違です。


 それにより、殺戮や戦争が繰り返されています。宗教の本来の目的からすればずれていますが、宗教指導者だけが悪いわけではありません。


 イエスの教えは本物ですが、それを基に編纂された聖書と設立されたキリスト教は「誤り」です。それを無条件に信じてしまう一般信徒にも問題があります。


 聖書に対し、既存団体に対し、常に自分の心に照らし合わせながら、真贋を判断していく必要があります。さもなければ、指導者の指示により殺戮集団の一人にされてしまう危険性があります。


 もちろん、指導者も悪いのですが、それを盲目的に信じてしまった一般信徒も悪いのです。


 「今の政府は本当のことを言わない」と言って、おこっている方もいらっしゃいます。自分でネットを調べて、原発反対運動にも参加したりもします。


 しかし、反原発運動には、ある政治的な思惑があるということも知る必要があります。


 裏を探っていくとどもまでも裏があります。しかし、知らないものはないのと同じですので、ある程度のところまでわかっていれば、それ以上は調べる必要はありません。


 あなたがより善い生き方が出来さえすれば、必要な情報としては十分です。


 例えば、低放射線被曝の害を心配している人が多いそうです。しかし、それを心配して感じるストレスのほうが、もっと害があります。


 もし、低放射線被曝が体に悪いということが証明できたとしても、あなたは今の生活を変えることはできないと思います。オーストラリアなら安全であると言われても移住は実際問題として不可能でしょう。


 真理を追究することは必要です。しかし、表面的な真理ではなく、形而上学や宇宙進化論までを含めての真理を追求すべきです。


 もし、それができるまであなたの意識が高くなっていれば、福島原発の問題は大した問題ではないことが分かるはずです。


 2011/09/21(水)


 人を赦すべきですが、赦す前に裁かない方が良いです。そうすれば、赦す必要はありませんから・・・



 人を赦すのが、難しいという人がいます。それは、もっともな話だと思いますが、まず、赦す前には「裁く」という行為が成されていなければなりません。


 裁く正当な権利というのは、果たして存在するのか?


 人を裁く前に、この問いが発生します。これについて、シンドラーのリストという映画の中で、良い言葉があったので、それを引用してみます。


 『裁く正当な権利があって裁くのは、正義かもしれないが、裁く正当な権利があって裁かないのが、愛である。』


 と主人公が、ゲシュタポに向かって述べました。ゲシュタポには正当な権利はなかったのですが、主人公はユダヤ人を解放してもらうために、このような言葉を述べたのです。


 昨年、ハーバード大学のサンデル先生に傾倒したときがありました。論文を書き、安田講堂の特別講義にも参加してきました。


 彼が掲げたテーマは「JUSTICE~正義~」でした。このテーマでNHK教育で、3か月間講義が放送されたのですが、最初からこのテーマについて、疑問を感じていました。


 はたして、最初から正義という概念を語ることで哲学になるのだろうか?ということです。


 哲学とは、生きるとは?とか、存在するとは?とかから始まり、生きるとしたらどのように生きるべきか自己とは何か存在するとはどうゆうことかとかを語るべきであり、その結果として、JUSTICEが出てくるべきでは?と感じていました。


 今となっては、アメリカの不法を正当化する世界世論を形成する為に、米日間で仕組まれたプロパガンダだったのだと思います。


 サンデル教授は、決して形而上学には入り込みませんでした。形而上学を無視した哲学は、単なる屁理屈の域を脱しない気がします。


 そのため、J・S・ミルの功利主義を取り上げたときににおいても、イエスの黄金律を取り上げずに、ベンサムレベルの功利主義論に終始していました。


 功利主義とは、「快は善・苦は悪」という考え方です。単純明快です。しかし、その快の極限値を取ると己の如く汝の隣人を愛せよに行き着くと言うものです。J・S・ミルがその著書『功利主義論』で述べています。ただ、現在は絶版になっていますので、ご興味のあるかたは図書館で読んでください。Amazonでも売っていません。


 サンデルが取り上げた難破船の問いですが、真の功利主義者でしたら、次のような行動を取るはずです。


 ①自分が死にかけた船員であったなら、自らを食料として他の船員の為に捧げる。


 ②自分が死にかけている船員を見守る船員であったとしたら、共に死を選ぶ。


 これが、真の功利主義者の取る行動です。これをサンデルは、1人を食料にして4人が助かる方法を取るのが功利主義であると解釈しています。大きな誤りです。


 そのサンデルが信奉するのがコニュニタリアニズムです。コニュニタリアニズムとは、自分が愛する者を愛するのは正義である(そのために、他のコニュニティと争っても良い)という考え方です。


 この考え方が戦争を生んできたのに、その考えを押し広め、さらにアメリカの暴挙を正当化しようとする悪意が、これらの講義・企画の背後に潜んでいたのだろうということを、最近感じるようになりました。


 アメリカ、というか闇系の人は、イスラム教圏対全世界という構図の大戦を企んでいると思います。詳しいことは割愛します。ご自身でお調べください。


 アメリカという国は、軍産複合体がGDPに占める割合が非常に高いです。それが儲からないと国が回りません。そのために戦争が必要です。彼らは戦争を経済活動として起こすのです。


 ヨーロッパのロスチャイルド系も同様です。彼らの母は、「私の子供たちが望めば、戦争はおきません」と言いました。ということは、彼らが望んでいるため、戦争が起きていると言い換えることもできます。


 戦争、というか、世界の経済は、一部の支配者階級によって動かされているのです。今回の東日本大震災に関しても彼らが積極的に関与していると思います。9・11と同じ構図です。(「アルカイダのテロ」という意味では決してありません。)


 ですが、彼らと戦おうと言いたいのではありません。彼らさえ裁いてはいけないのだと思います。そうではなく、まず自分自身が自分の核をしっかり持つことが大切です。


 今回の震災での放射線被曝を、心配なさっている親御さんが多数いらっしゃることは知っています。子どもの10年度・20年後を心配してのことですが、それ以前に今・ここを心配して欲しいと思います。


 黒柳徹子が貧しい国を回っていた時に、売春をする少女に出会いました。その時、黒柳徹子は、「そんなことをしているとエイズになって死んでしまうよ」と言ったそうです。それに対しての子どもの反論は、


 『エイズになっても何年かは生きられるでしょ!でも、売春をしないと明日を生きられないの!』


 私たちの多くは、明日は、今日と同じ明日が来ると思っていますが、それは大きな間違いです。


 仏教の禅宗の考え方をもちいれば、『今・ここ』しか存在しないのです。


 スピリチュアル系の人の言葉を借りれば、『アセンションが起こり、私たちは5次元・第4密度に移行する』と言うことになります。


 そしてその時期は、『2012年にピークを迎える』と言われています。数々の予言が的中していたマヤ暦は、2012年12月21日に終了しています。ただ、この暦にはズレがあり、正確には2011年10月28日が終了だという博士もいます。


 科学的に見ても、太陽の活動が異常を来しており、今後どのような影響がでるか推測できないとなっています。また、地球温暖化は、地球温暖化ではなく、太陽の影響による太陽系温暖化という説まであります。


 地球温暖化については、それを述べた教授が捏造データを使っていたということは周知の事実です。しかし、地球温暖化がウソという訳ではないと思います。


 地球自体は、寒冷期に入っているけれども、太陽系が温暖化しているというのが、正確な認識ではないかと思います。


 ただ、どれも仮説であり、真実とは限りません。量子力学の考え方に夜ならば、観測者が何を観測するかで、結果が変化するという事実があります。


 BASHARは、パラレルアースという言葉をもちいます。これから地球は分離していくと・・・


 アセンションにより、覚者は別の次元・密度の地球に移行するかも知れません。覚者になれない闇系の人とそれらの人がB層と呼ぶ人達は、荒涼とした地球に住み続ける事になるのかも知れません。


 子どもの未来を心配なさるのであれば、これらの状況を踏まえた上で、心配頂ければと思います。


 話がそれすぎてしまったので、本題は明日書きます。


 2011/09/20(火)


 結果でしか物事を判断できない人は、冷たい人だと思います。動機だけで評価する人も不十分だと思います。



 結果で物事を判断することは、ハーバード大学のサンデル先生の言うところの『功利主義』です。『善悪は結果で判断される』という考え方です。ただし、本当の功利主義はこんな卑近なものではありません、断じて!


 命においても、この考え方を適用します。すなわち、二人とも死ぬなら、一人だけでも助かった方がよいという考え方です。誰かを犠牲にしても、良心の呵責などをおぼえる必要はありません。なぜなら、数的に判断して善いことをしたからです。


 今の世の中は、このような考え方が広まっていると思います。すなわち、「効率を重視し、成果が上がらなければ無意味」という価値判断です。そこに想いは考慮されません。


 例えば、あるサラリーマンが残業をしたとします。毎日3時間したとします。家庭を犠牲にして。しかし、その結果として成果を残せなかったとしたら、残業代泥棒といって罵るのが、この考え方です。


 または、仕事ができる人を評価する態度もこれに該当します。今の世の中はできる人であることが大切であり、自分にも他人にもそれを求めます。


 この考え方は、できない人は価値が低いという見方にも通じます。社会的に弱者と呼ばれる人は、このような価値観から見たら価値が低い人ということになると思います。


 この考え方を更に推し進めると、優生学というものになります。これは、遺伝的に優れた種族のみを生存させるというものです。


 このような考え方は、差別や虐殺を生んできました。それですので、効率だけで、物事を判断するのは冷たい考え方であり、非人道的だと思います。


 しかし、先の成果の上がらない残業をしていたサラリーマンが、そのことを反省せずに、『こんなに頑張ったんだから、おれの努力を汲んでくれ!』と言ったとしても、悪い仕上がりの企画等を採用することは、他者の利益に反する事になります。


 それですので、成果の上がらない残業をしたサラリーマンは、成果の上がる残業ができるように自分を成長させるべきです。


 企業において、この情にほだされるばかりに影響されると、その会社は傾き始めます。友達同士で始めた会社が大きくなると、誰かが足手まといになる傾向があります。ですが、情にほだされて、その人を切れないと利益が減少することになります。


 その時、関係者は、関係は維持しながら経営を上手くこなしていくことを考える必要があります。効率だけを考えて、創業からの立役者を切るという行為は、日本的な文化ではありません。


 バブル前後から、意図的に外資系が日本の企業を買収し始めました。それまで「是」とされていた終身雇用や縁故を大切にする経営等は、否定されていきました。


 ジェームス・スキナーさんなどは、「終身雇用は自由意志を阻害するもので、奴隷社会だ」と言っていました。ある面正解ですが、ある面間違いです。


 ジェームスさんのセミナーを受講していましたが、経済的な理由と考え方の相違から、そのセミナーを脱会しました。


 ジェームスさんの考え方は、やはり効果・効率重視主義です。効果を追求するのは意味のあることですが、効率を追求するのは無意味です。


 例えば、画質の向上を目指してディスプレイを開発するのは、効率を重視する考え方に通じます。しかし、そのディスプレイで殺戮ゲームに興じたり、AVばかりを見るのであれば、そのディスプレイを開発した努力は、あまり効果がないことになります。


 突然「効果」という言葉を使いましたが、ディスプレイの効果を考えた場合、何でしょうか?


 ディスプレイの効果とは、視覚的に見た方が理解が深まる情報を、映像として見ることにより、理解が深まることだと思います。


 殺戮ゲームやAVにおいても、高解像度のディスプレイの効果というものもありますが、それは「刺激がより強くなる」ことだと思います。


 しかし、それらにおいて満たされる刺激というのは、低次元のものです。満たしたい刺激を反射的に満たす前に、満たすべき刺激を効果的に決定すべきです。


 話がどんどんと主題からそれていますが、書きたいように書きます。


 人生の目的とは、刺激を求めることではないはずです。また、効率よく生きることでもないはずです。しかし、多くの人は、人生の目的を効率よくお金を儲け、多くの刺激を満たすことと勘違いしています。


 単純な刺激は「満たされると更に強い刺激」を求めるようになります。足ることを知りません。


 ドラッグから得られる刺激は、多くの人を虜にし、廃人へと導きます。しかし、シャーマンが使う聖なる植物を煮出したものからは、ドラッグと同じ成分が検出されるそうです。しかし、聖なる植物を煮出したもので中毒になる者はいません。なぜなら、使い方が聖なるからです。


 セックスは、麻薬に似ています。タイガーウッズはセックス中毒だったそうですが、セックスは愛し合う二人がより一つになっていくには大切なものだと思います。聖なる行為を通して、生命を授かるのです。


 このように考えると動機が大切ということになります。しかし、動機が正しくても誤った道を歩むおそれがあります。そのため、多くの人が、疑心暗鬼になり、誰かに正解を示して欲しいと宗教やスピリチュアルなものに走ります。


 「真理は、一部の人しか知り得ないもの」という考えの元、宗教が生まれました。イエスや釈迦が説いたものは、真理ですが、それを元に生みだされた宗教は誤りです。


 多くのスピリチュアルリーダーが述べていることも真理かもしれませんが、多額の金銀を求められているとしたら、その関係者の誰かが間違っています。


 真理はありますが、真理に至る道は、人それぞれです。そして、その道はその人が切り開いていく必要があるのです。


 多くの人は効率よく森を切り開いていこうとするのでしょうが、ここで効率を考えることはナンセンスです。


 人生を生きる事は、音楽を聴くことに喩えても、わかりやすいと思います。あなたは、音楽を聴くときに効率よく聞こうと思いますか?効率よく聞くために、CDの再生速度を速めるでしょうか?


 音楽を聴く動機は、音楽を聴くことによって気持ちよくなることです。音楽を聴くことは、真理を発見する為や、人生勉強のために聴くのではないはずです。


 音楽を聴くのは、音楽を聴きたいからです。ここにおいて、手段と目的は一致しています。


 人生も同様だと思います。何かになるために生きるのではなく、生きたいから生きる、もう少しわかり易く言えば、体験するために生きるのです。


 あなたが、あなたという個性をもって、人生を生きていくことが、あなたの人生の目的なのです。


 この言葉は、普遍的に適用できますが、表現される人生は千差万別になります。それですので、それぞれに生きる意味があるのです。あなたには、あなたにしか歩めない人生があるのです。


 それですので、他の人のあなたの人生に対する意見など気にする必要はないのです。あなたの生きたいようにあなたの人生を生きれば良いのです。


 地球環境が破壊され、人類は滅びる運命にあるという意見もあるでしょう。そんなことも関係ありません。もし、この地球が滅びるとしても、あなたが、永遠に生きるということを選択するのであれば、あなたは永遠の世界に移行することになるでしょう。



 

 2011/09/16(金)


 時間や物質等、すべてが潤沢にあるとしたら、地球はどんな姿になるでしょうか?



 時間や物質等、すべてが潤沢にあるとしたら、地球はどんな姿になるでしょうか?また、その時あなたはどんな人生を選択しますか?


 このような問いかけをしても、ピンと来ない方も多いと思います。まず、現時点でのこの世界の成り立ちを説明したいと思います。


 この世界は、7つの習慣の言葉を借りれば、『win-lose』の信念により形作られていると思います。


 どういう事かと申しますと、win-loseの信念とは、『あなたの取り分が多くなると、私の取り分が少なくなる。それなので、私はあなたを蹴落としてでも自分の取り分を確保する』というものです。


 これは子ども時代からの教育により、当たり前のようにすり込まれている信念です。


 地球温暖化を理由に、炭素税を付加しようという流れがあります。しかし、これは先進国が、中進国が経済発展することによって、自分たちの利益が減ることを心配して起こしている国際詐欺という意見もあります。


 CO2が温暖化ガスであることは確かですが、それが地球温暖化の原因であるということにはなりません。


 「太陽系自体が温暖化している」という説もありますし、「長期のスパンで見たなら、地球は寒冷期に入りつつある」というものもあります。


 温暖化しているという説を述べだした博士が、温暖化のデータを偽造していたというのは情報通の人の中では常識となっています。


 なぜ、こんな話をするかというと、温暖化の元となっているCO2排出の原因は、エネルギーを取り出すために石油を燃やすという行為であり、かつ、石油は限りがあるということを確認したかったからです。


 それだからと言って、原発を推進しよう!ということを言いたいわけではありません。


 石油を使うにしろ、ウランやプルトニウムを使うにしろ、それは埋蔵資源であり、いつかは枯渇するものです。


 このことが原因となり、win-loseの信念を生むのだと思います。『限りあるものを所有する者、及び、それを購入できる者』が『win者であり、winするには競争に勝たなければならない』という信念を生むのだとおもうのです。


 ここで、『もし、エネルギーが無尽蔵にあったなら、そのような世界はどのようになるか』という問いが発生します。


 多くの人は、『資源には限りがある』と思っているため、上の問いは『ナンセンス』であると思うかも知れませんが、そんなことはないと思います。


 『フリーエネルギー』という言葉を聞いたことはあるでしょうか?この言葉は、無尽蔵にあるものを活用して、無尽蔵にエネルギーを取りだそうというものです。


 そんなのは、SFの世界のはなしでしょ?という人も多いと思いますが、スタンレー・メイヤーは、実際に水だけで走る自動車を開発し、83リットルの水で、アメリカ大陸を横断しました。しかし、その後変死しています。


 日本でも、常温核融合の研究で素晴らしい成果を上げている大阪大学の荒田教授は研究費さえ国からもらえてないそうです。


 『それは、それらの技術が不十分だからでしょ?本当ならば、企業や国が資本提供して開発するでしょ!普通に考えて』というご意見が聞こえてきそうですが、フリーエネルギーが実現されてしまうと困る人が多くいるのです。


 彼らは『win-lose』の信念で世の中を考えていますので、そんな物が実現してしまうと、『lose-win』になってしまうと思い、そのような社会が実現するのを恐れているのです。


 彼らが望む世界は、『富む者が更に富む世界』なのです。子ブッシュが支援者に挨拶するときに、『富める者とさらに富める者にご挨拶申し上げます。』と述べてから講演を開始しました。彼らが、現在の社会での『win者』です。


 しかし、『win-win』の信念で彼らを見た場合、彼らは不幸な人だと思います。なぜなら、彼らは共存・共栄の世界では満足できない価値観しか持ち得ていないからです。


 『人より多く持つ・人より強い権力を持つ』ということが彼らの幸せなのでしょうが、本来の幸せとはそんなものではないはずです。


 『幸せとは、幸せだと感じている時』なのだと思います。これは、エックハルトトールの言葉です。


 幸せとは・豊かさとは、物質や権力により得られるものではないと思います。どんな状況であっても・僅かしかものを持っていなかったとしても、『自分が幸せと豊かさを感じている』のであれば、幸せなのです。


 『何もが、潤沢にある世界であるならば、そんな風に考えることもできるかもしれないけど、今は資源が枯渇している世界なんだよ!そんな中で、生き残るためには、戦いに勝つしか方法はないんだよ!』という反論も聞こえて来そうですが、生き残ることが人生の目的ではないと思います。


 『自分に与えられた時間が無限』であるなら、どうでしょうか?


 この意味を簡単に申し上げますと、『あなたの命の永遠性が保証されているなら』と同義です。


 あなたの命が永遠であるならば、生き残ることを心配する必要はないはずです。


 『なんのことを言っているのか意味わかんないよ!バッカじゃないの!?』というご意見が聞こえて来そうですが、永遠の命については、幾つもの宗教で述べられていることです。ただ、それは現時点での一般的な科学では証明されていない内容ではありますが・・・。


 そのように述べる方に反論したいと思います。『常識とは、住む世界と住む自体によって変化します。科学もその中の一つに過ぎません。また、真理が存在していたとしても、あなたがそれを理解しなければ、あなたの事実ではないですよね?』と。


 あなたは、あなたの信念に基づき生きる事になります。その信念の上で『幸福』を感じたいのだと思います。どんな信念を持つにしても・・・


 『十分なお金があったなら、わたしも恵まれない人に寄付をしたいと思います。』と言ってくれる善良な人もいます。しかし、そのような人は十分なお金を持つことはないと思います。


 なぜなら、『自分には十分なお金がない』という信念を言葉にしてしまっているからです。


 『十分なお金は、寄付できたとき、十分に持っていることになる』のだと思います。少なくとも、心情的には『豊か』になっていると思います。


 あなたが、精神的に豊かになっているのであれば、経済的にも豊かになるかも知れません。ただ、それは保証されてる訳ではありませんが・・・。


 経済的な成功を動機として、引き寄せの法則を利用しようとしても、そのような精神状態は『豊かではない』ので、『あなたは豊かではない』のです。


 すわなち、豊かになるには、まず、豊かであることが必要なのです。現在、物質的に欠乏を感じているなら、今後も、満たされることはないのかもしれません。現在、多くを持っていないのに、必要なものを全て持っていると思えることが、豊かであることの・そして豊かになるための出発点であると思います。


 全ては、潤沢にあるのだと思います。少なくとも、誰もが幸せになるために必要なものだけはこの地上にあると思います。


 そのためには、世界を変える必要があるかも知れません。それは、政治家が行うことだとお思いかも知れませんが、『世界に変化を望むなら、自分がその変化になれ』とガンジーが言いました。


 世界の平和を望むのも、まずは、あなたが幸せを感じることがその出発点だと思います。



 2011/09/12(月)


 「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」by ダク・ハマーショルド元国連事務総長



 「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである」by ダク・ハマーショルド元国連事務総長


 私は、キリスト教を信奉していましたので、大衆の救いを優先させることの方が価値あることと思っていました。しかし、精神を患ってから・そしてそれから復活する過程で、まず自分を大切にすることの重要さを悟りました。


 冒頭取り上げた言葉は、最近読んだ本の中に出てきた言葉だと思いましたが、本当にその通りだと思います。


 私は、ヒクソングレイシーの柔術を学んでいます。そのきっかけは、彼が書いた本を読んだからです。ヒクソン・グレイシー『無敗の法則』です。


 その中で、彼は息子を失った時のことを語っていました。息子を失った彼は、自ら命を絶とうとも考えたと言っていました。立ち直るのに何年かかかったそうです。


 その結果、彼が悟ったのは、自分を最も大切にすることだったそうです。ちょっと矛盾を感じるかも知れませんが、最も大切なものを失ったことによって、最も自分を大切にすることが大切だと悟ったと言うのです。


 イエスも言っています。『己を愛するが如く、汝の隣人を愛せよ』と


 汝の隣人を愛する基準は、己を愛するが如くなのです。まずは、己を愛する事が大切なのです。


 マザーテレサに『なぜ政治家にならないのか』と問いかけた人がいたそうです。それに対して、マザーテレサは『死に行く人、その人を、ただお慕いするイエス様と思ってお世話をし、その人のお世話がすんだら、隣の人のお世話をするだけです。政治は政治家がすれば良いのです。』という風に答えていました。(言葉は正確ではありません。記憶に残っているのはこのような意味でした。)


 この姿勢は、冒頭の言葉を同じだと思います。


 世の中には、活動家と呼ばれる人がいます。人道的なことを行っていますが、動機がずれていって、運動になってしまっている人もいます。その動機が愛なのか、それとも顕示欲なのか、どちらかわからなくなっている人がいます。


 以前、とある人から『クリスチャンの家庭の子どもには、不良が多い。その理由は、両親が自分の子どもを愛することより、他者を愛することに一生懸命になっているからだ』と言われたことがありました。


 自分のことをクリスチャンだとは思っていませんでしたが、イエスの愛を否定されたような気がして、不愉快な思いをした記憶があります。ただ、その人の言ったことは、ある面当たっているかも知れません。そのようなクリスチャン家庭はありますので・・・。伝導に熱心ゆえに、家庭を顧みない夫婦とかいますよね・・・。そんなカルトもありますよね・・・。


 まずは、自分と自分の周りの人を愛することが大切なのだと思います。ただ、これは自分だけが良ければ良いという態度ではなく、まず自分が良いことが大切、かつ、他者も良ければなお良いという姿勢です。


 7つの習慣の言葉を借りれば、まずwinを考え、winが実現できるのであれば、win-winを考え、それができないのであれば、lose-winwin-loseに陥るのではなく、お互いの発展を信じてno dealを選択しましょうという生き方だと思います。


 よく勘違いされることですが、愛ある人とはお人好しとは違うという事です。lose-winを選択ばかりする人は、win-loseを信奉する人のカモにされてしまいます。情にほだされて連帯保証人になるような人のことを言います。そのような行為は愛で始まるかも知れませんが、最終的には愛でなくなる可能性が高いです。恨みが残るでしょう。恨みが残るものは愛ではありません。


 理想を掲げて愛の大風呂敷を広げても、それに伴う包容力がなければ、その愛の泉は枯れてしまいます。枯れない範囲で愛を供給できる泉であることが大切なのだと思います。その中で、段々と大きな泉になることを目指せば良いのだと思います。


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 2011/09/09(金)


 「影響の輪」と「関心の輪」というものがあります。これらについて説明してみたいと思います。


「影響の輪」と「関心の輪」というものがあります。これらについて説明してみたいと思います。
影響の輪
 


 これらについては、『7つの習慣』で述べられていたものです。影響の輪というのは、自分が関心を持っており、なおかつ、影響を及ぼすことができる範囲のことを言います。それに対し、関心の輪というのは、自分が関心を持っているが、影響を及ぼすことができない範囲のことを言います。


 うんちくばかり言って、自分は何もしない人・できない人というのは、影響の輪に比べて、関心の輪が大きい人のことを言います。「○○のせいで、××できない」というようないい訳をよくする人です。


 両者の輪の「相対的な関係」で言うならば、そうかもしれませんが、影響の輪の『絶対値』が大きいのであれば、関心の輪が相対的に大きいということが即悪いとは言い切れません。ガンジーは小さな影響の輪から始め、大きな影響の輪に変えていきましたが、関心の輪はとれ位大きかったかはわかりません。


 『明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい』とガンジーは言っていました。そのように言っていたガンジーであり、かつ、ブラフマンとアートマンという思想のあるヒンズー教を土台にして生きていたため、関心の輪は『時間枠を超えた普遍的全宇宙』であったかも知れません。


 そのようであるなら、関心の輪が相対的に大きすぎるため良くないとは言えないと思います。


 例えば、核の問題が「関心の輪」に入っている人がいると思います。福島原発の問題で多くの人が心配していると思います。しかし、これは『影響の輪の外』の問題と捉えることも可能でしょう。政府が悪くて被害が広がった。政府が悪い。自分たちには何もできない。と考えるなら、原発の問題は影響の輪の外になると思います。


 しかし、脱原発や新エネルギーについて行動するのであれば、影響の輪の中に原発の問題を入れたことになります。


 関心の輪を大きくするのに、既存のメディア以外のものに、目を向けていくことが必要だと思います。関心の輪が、大手新聞とテレビという方には、真実は見えてこない構造になっています。


 9・11がもうすぐ10年目を迎えますが、新聞とテレビだけを見ている人に取っては、9・11はアルカイダの犯行になっていると思います。しかし、それは、間違いです。調べればわかることです。自ら調べてください。


 3・11は人工地震という人もいます。『人工地震なんてあるわけないじゃん、バッカじゃないの?』という人もいると思いますが、人工地震は第二次大戦終了時に日本の新聞にも取り上げられている古典的な兵器なのです。そのことすら知らずして、非難する人は『B層』と呼ばれてしまいます。


 話がそれましたが、関心の輪と影響の輪は共に大きくしていく必要があると思います。井の中の蛙大海を知らずという諺がありますが、蛙は関心の輪も影響の輪も小さいをこと指摘し、それではいけないといっている諺です。


 人として生まれたなら、無限・永遠を基準に、「影響の輪をその中の何処に置くか」と決めることが、とても大切になると思います。何処に置くかを決めることが、信念であり・個々人の哲学になると思います。大きさはあまり問題ではないかも知れません。大きさを大きくするために、かえって心労が増えるなら、無理して大きくする必要はないでしょう。


 しかし、無限・永遠を基準に生きているなら、自然に影響の輪は大きくなっていくと思います。2011/09/11に大震災かテロがあるかも知れません。「影響の輪の大きな人」がそのことを企んでいるかも知れません。この発言に関して、何も感じない人は関心の輪を大きくする必要があります。ネットでこれらのことを検索してください。


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 2011/09/06(火)


 正岡子規の考える禅の心を取り上げてみます。心が落ち着きます。


 余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居ることであつた。(「病牀六尺」正岡子規)



 正岡子規は、結核でずっと床に伏していた俳人です。そのことを踏まえて、この言葉を読むとより理解がますと思います。


 『不治の病』で床に伏しているより、死んだ方が楽でしょう。しかし、それでも、生き続けることが禅の心だと正岡子規は言っているのです。


 私も鬱の時は『死んだ方が楽だ』と思ったときが何度もありました。本当に酷いときは、死ぬ気も起きないのですが、少し良くなると『死』を考えました。


 生き続けることは、死を選ぶより辛い時があると思います。それでも、人は生きなければならないと思います。


 このところ、7つの習慣やジェームス・スキナーさんの講義などを聞いていましたが、何となく心の渇望を感じたので、禅の本を読んでみました。その中で出会った言葉です。


 スティーブン・R・コーヴィーさんの言っていることも本当だと思いますが、そこで述べられているのはあくまでも一般的な環境下でのお話のような気がしました。


 わたしは、自他共に認める変態ですので、一般的な環境下でのみ成り立つ真理にはあまり興味がありません。もちろん、基本的な知識としては押さえておきますが、あまり追求したいという気がおきません。


 また、『犬には仏性があるか?』といった公案にもあまり興味がありません。なぜなら、人間自体が異星人による遺伝子工学の結果、生みだされたものであるなら、人間の仏性ごときにこだわることがナンセンスだと思います。


 『異星人に仏性ありしか?』ならいいですが・・・


 自称金星人であるオムネクオネムさんは、イエスは金星人のマスターだったと言っています。イエスを信じる自分としては、冒涜では?とも思いましたが、真偽を確認できないため、とりあえず案としては受け入れています。


 人間が存在する理由については、哲学の領域になると思いますが、バシャールによれば、『存在するものが存在するものの意味を考えても意味はない。なぜなら存在しないものは、存在しないのであるから』というようなことを言っていました。


 ある面、もっともなお言葉です。存在する理由は考える必要はないかもしれません。考えるべきは、如何に存在するか?だと思います。


 如何に存在するか?において、経済的な成功はあまり意味がない気がします。しかし、その成功を7つの習慣のDVDやジェームスさんは言っているような気がします。


 それに何となく違和感を感じたため、禅の本を読んだのです。


 禅をZENとして、世界に広めた人は鈴木大拙さんです。彼は、知識が一杯の状態では、禅の心は理解できないというようなことをその著作の中で述べています。


 今は、情報と雑音が入り乱れている世界です。その中から真の情報だけを取得しようとアンテナを張り巡らしている人もいます。自分もその一人です。


 しかし、真の情報を取得したとしても、より善く生きられるとは限りません。かえって情報がないほうがより善く生きられるかも知れません。


 今の経済状況や太陽の状況等を正確に認識したら、明日はどうなるかわからないと感じることでしょう。しかし、そのような状況においても、平然と生きていけるのが禅の心を取得した人なのだと思います。


 冒頭の言葉は、まさにその境地を現しているものだと思います。


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 2011/09/05(月)


 今日は、誤った信念の3つ目、『自己愛は悪いこと?』という事について書いて見ます。



 今日は、誤った信念の3つ目、『自己愛は悪いこと?』という事について書いて見ます。自己愛も自己満足と同じように、『悪いこと』という判断がなされることが、多いと思います。その反対に良いことに上げられるのは『自己犠牲』です。


 自己犠牲は、キリスト教で『善い』とされている精神です。私は、小説の塩狩峠からキリスト教に入りましたので、この自己犠牲と自己愛の狭間で悩んできました。


 自己犠牲とは、「己を犠牲にして、相手を救うこと」を意味しますが、この場合問題なのは、どこまで自己を犠牲にすればよいのか?ということです。


 例えば、アフリカに飢えている子どもがいるから、自分の給料の9割を寄付するという『自己犠牲』の目標を立てたとします。私の年収が1000億あったとしたら、9割寄付したとしても、100億残るので特に問題はないかも知れません。しかし、私の年収が600万の場合、残りは60万となってしまいます。今の日本で60万では暮らせないでしょう。それですので、年収600万の人が、自分の給料の9割を寄付するのは無理です。


 キリスト教の一派では、給料の1割を寄付するように言われます。「1割を寄付したらなら、全てを寄付したことになる」と教会の方からお墨付きをもらえるそうです。教会は、その権威をどこから受けているのかという問題もありますが、1割で「良心の呵責」を受けなくなったとしたら、そこで「自己満足」したことになります。


 どのようになったら、良心の呵責を受けなくなってもよいのでしょうか?1割寄付ですか?3割寄付ですか?9割ですか?


 寄付する金額は関係なく、『できる範囲で、できる限り』をすればよいのだと思います。この場合のできる範囲と限りは、自己の責任に任せられることになるのですが、それを行うのが、「個性」であり、「良心」なのだと思います。


 塩狩峠では、自分の命を投げ出して、列車に乗っている他の乗客を助けます。これは善い行為なのかもしれませんが、その列車が『死刑囚移送列車』だったとしたら、どうでしょうか?いずれ死刑にされる人の為に、命を投げ出すのは「無駄な事」かも知れません。低次元な功利主義に基づくなら、間違いなく無駄な事です。


 しかし、その判断をするとき、人の命に優劣があるという判断をすることになります。真の愛とは、無条件の愛のはずです。条件を付けない愛です。無条件の愛であるなら、「列車に乗っている人が誰であるかは関係のない問題」になるはずです。理知的な方は、この判断を受け容れることができると思います。ですが、それを「あなたは実現できますか」と問うた場合、多くの人が『できない』と答えるでしょう。


 それは、それで良いのだと思います。『できる範囲で、できる限り』をすれば良いのです。


 もし、あなたが女性であったとしたら、あなたは売春をしますか?


 自己愛の中の物質欲を満たすために、売春をする人もいると思います。しかし、自己愛ゆえ、売春をしないという選択をする人もいると思います。これはその人の価値観によります。


 イエスや釈迦に自己愛はなかったでしょうか?彼らも自己愛の発露として、教えを説いたのだと思います。釈迦は、家族を犠牲にしました。出家という行為によって・・・


 私も出家をしたことがあります。釈迦の出家を悪く言う人は少ないと思いますが、私の出家に対しては、非難囂々でした。その時、私は独身でしたので、ある面、釈迦よりも自由度は高かったと思います。ですが、周りの人は私の行為を非難しました。


 私は、一族郎党(あの世を含む)を救わんが為、出家したのですが、それは「自分勝手だ!」というのです。自分勝手かもしれませんが、自分勝手が悪いのでしょうか?自分の人生を自分の思い通りに生きられないというのであれば、その人は『奴隷』ではないでしょうか?


 多くの人は、世間体や常識という名の無意味なものにより、奴隷のような人生を生きているような気がします。まずは、自分を生きることが大切だと思います。自分を愛し、自分勝手に生きて、なおかつ、生きとし生きる者の為になる生き方が、ベストだと思います。


 そのように考えた場合、自己愛が全ての出発点になる気がします。


 イエスは言われた、「己を愛すが如く、汝の隣人を愛せよ」と。


 隣人を愛する愛し方は、『己を愛するが如く』とイエスは言っているのです。逆説的に言うならば、己を愛せない人は、他人のも愛せないのだと思います。それですので、自己愛は大切なのだと思います。しかし、自己愛と言ってもwin-loseの自己愛でなく、win-winの自己愛を目指すべきです。その時、自己愛は相互依存の関係への昇華します。


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 2011/09/02(金)


 今日は、誤った信念の2つ目、『自己満足は悪いこと?』という事について書いて見ます。



 自己満足って悪い意味で使われる事が多いですよね?でも、「自己満足」って、本当に悪いことなのでしょうか?


 満足について、表した以下の表をご覧ください。

他者が満足他者が不満足
自己が満足領域Ⅰ領域Ⅱ
自己が不満足領域Ⅲ領域Ⅳ



 領域Ⅰは、「7つの習慣」の言葉を用いれば、win-winの関係と言えると思います。両者に得があるという領域です。これについて文句を言う人はいないでしょう。


 領域Ⅳは、lose-loseの関係です。両者がという関係です。「そんなこと誰も求めないでしょ!?」という答えが聞こえてくるようですが、そんなことはないです。身近に存在します。


 「人を呪わば穴二つ」という諺をご存知の方も多いと思います。これは、「人を呪って殺そう(墓穴に入れる)とするなら、自分も死ぬ(墓穴に入る)。よって穴が二つできる」という意味です。


 このようなことはよくあります。韓国の諺に「自分の食えない飯なら灰でも入れてやる。」というのがあるそうです。典型的なlose-loseの関係です。人を呪うような行動は、両者不満足の関係です。


 領域Ⅲは、世の中でもっともよくみられる関係だと思います。代表的なのが親子関係です。


 子どもは親の独善的な幸福感を押しつけられ、教育されます。ほぼ洗脳と言えるでしょう。ここで、社会は第Ⅱ領域でできていると教育されます。


 第Ⅱ領域とは、win-loseの関係です。簡単に言うと競争社会です。幸福の量は限られており、それを誰かに取られたら、自分が不幸になってしまうという考え方です。


 受験戦争偏差値教育というのは、このwin-loseの関係でしょう。


 このような信念を植えつけられ、親子関係で、子どもは勝つこと、生き残ることを強要されます。自分が望んでいないのにです。


 子どもは競争よりも、自分のやりたいことを望んでいたはずです。「そんなことしてないで、勉強しろ!」という言葉で、不満足な受験対策をさせられるのです。


 子どもは親の言いなりに受験対策し、良い成績をとってくるかもしれません。その時、親は自己満足するのです。よってwinです。子どもはやりたくないことを嫌々やってので、loseです。よってこの関係は、lose-winの関係です。思い当たる節はないでしょうか?


 「7つの習慣」ではこの他に、winwin-winまたはno dealを加え、人間関係において6つのパラダイムが存在していると言っています。


 この6つのパラダイムで長期的に利益を生み出すのは、win-winの関係だけです。このとき、自己は満足しているので、自己満足です。よって、自己満足は悪いことではないのです。


 世の中で自己満足が悪いと言われている理由は、win-loseを求め過ぎることを言っているのだと思います。しかし、それを教育という名の洗脳で行っているのに、おかしな話です。矛盾しています。


 場合によっては、lose-win的な選択をする必要があるかも知れません。老人に席を譲るを考えた場合、lose-winだと言う人もいるでしょう。しかし、これはwin-winの関係なのです。


 先に取り上げた韓国の諺をとする価値観で生きている人にとっては、lose-winでしょうが、良心的な人に取ってはwin-winなのでしょう。


 よって、自己満足といっても、win-winを根底に置く自己満足なら、問題ないのです。


 イエス様は言いました。「己を愛するように、汝の隣人を愛せよ」と。


 己を愛している人は、自己満足の状態にあると思います。その状態にいないのにも係わらず、他者を愛するという人の行為は偽善です。そのレベルで生活し続けるといつかになるでしょう。まずは、自分を愛して、自己満足することを目指しましょう。


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 2011/09/01(木)


 誤った信念のトップ3は、『「罪悪感」は善い、「自己満足」は悪い、「自己愛」が悪い』という信念だと思います。



 誤った信念のトップ3は、『「罪悪感」は善い、「自己満足」は悪い、「自己愛」は悪い』という信念だと思います。この意見に対し、反論なさる方は多いと思いますが、本当だと思います。以下、それぞれに関して、検証したいと思います。


1,罪悪感


 罪悪感とは、「悪いことをしてしまった」という感覚です。ただ、多くの場合、その裏で「そのように感じる自分は良い人」という思いがあるはずです。実例を上げながら、そのからくりをご説明したいと思います。


 以前、カウンセラー養成講座というものに参加したときに、現役のカウンセラーの方がある不平を述べました。それは、カウンセリングが長引いたり、アポイントが立て込んだりして、自分の時間が浸食されるといったものでした。

 
 講師の先生は、実際に時間を切り売りするカウンセリングは行っておらず、すべてネットで対応しています。そのため、今回苦情を述べられた方のような問題は発生していません。


 講師の先生は、「時間を切り売りしているようなカウンセリングでは、ちゃんと時間を決めて終了させなければなりません。なぜ、終了させられないのですか?」とご質問していました。


 苦情を述べていたカウンセラーは、色々と説明した後に、「罪悪感を感じるからです」をおっしゃっていました。誇らしく・・・。その方は、『わたしは良い人過ぎて、時間で相談を打ち切る事なんてできません!それを時間で切るなんて、ひどすぎます。そして、それをすると私は罪悪感を感じてしまうのです。それ位、私は良い人なのです。(涙々)』


 彼女の内の声を補間すると、上記のようになるでしょう。本当に、『時間で切るなんてひどすぎる』と感じていて、相談を続けているなら、納得の上での行動になります。それならば、満足感は感じたとしても、罪悪感は感じないはずです。


 専業主婦が、『日中、好きなことができない』と言っているのを聞いたことがあります。その主婦は、「夜は、子どもの世話などで自分の時間がとれない」という不満を旦那に打ち明けたそうです。それを聞いた旦那は、『それならば、日中に好きなことをすれば良いじゃない。してよ。してね!』と言ったそうです。


 しかし、その主婦は、『旦那が働いているのに、それも好きな仕事をしている訳ではないのに、自分だけ好きなことはできない。罪悪感を感じてしまう。』と言っていたそうです。この主婦は、善人でしょうか?


 多分、善人です。しかし、偽善人でもあります。本当の善人なら、『わかったわ!それでは、日中、好きな事をさせてもらう。その代わり、夜は子どもの世話をしっかりし、旦那も休ませてあげる!』と思うはずです。また、善・偽善を云々する前に、その方が効率的ですし、効果的です。


 もし、主婦が自由な時間が持てないという不満を感じたまま、子育てにあたり、『わたしも大変なのよ!』と言って、旦那のケアもしなかったとしたら、家族関係がうまく行かなくなります。彼女は、旦那に悪いと言って、日中好きな事をしなかった訳ですが、日中好きなことをしなかったために家庭が悪くなってしまいます。


 家庭を上手く行かせることが、旦那のためにも、子どものためにも、自分のためにもなるのです。そのためには、彼女自身が、罪悪感を持たずに旦那の助言を受け容れる必要があるのです。


 誤った信念のそれぞれについて、述べるつもりでしたが、長くなってしまったので、続きは明日にします。


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