2011年11月

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 2011/11/29(火)


 「人生最適化」についてご説明したいと思います。



 「人生最適化」についてご説明したいと思います。


 わたくしは、人生最適化コンサルタントを名乗っています。カウンセリング等を通して、「最適な生き方」を提供したくて、この名称を使用していますが、実際には、ブログ記述程度しか行っていません。


 普通のコンサルタント業務は、手の内を明かしませんが、わたくしは収入を得るために、この活動を思い立ったわけではありませんので、ネットで人生を最適化する方法をお伝えしたいと思います。


 人生における最適化の定義は以下の通りです。


 「人生における最適化とは、出来事・環境が自分のとって『最高の環境である』という座標軸を『今』という永遠に続く瞬間の中で、『構築し続けて生きる』ということ」


 と言えます。微分がわかる方には、次のように言うとわかり易いと思います。


 「人生を時間軸tで微分したときに、その結果が常にプラスになるように、人生の座標軸を決定する」


 数学においては、t・Y軸が固定であり、その中で関数Y(t)が描かれます。Y(t)は色々な曲線を描くと思います。


 「人生はあざなえる縄のごとし」という諺は、関数Y(t)の平均値が0になるという事を言っていることになります。本当にそうでしょうか?


 「人間万事塞翁が馬」は、Y(t)が正の値を取ったときは、次に負の値が起こるかも知れないと考え、負の値を取ったときは、次に正の値が起こるかもしれないと考え、「浮かれるな!嘆くな!平穏でいろ!」と言っているのだと思います。


 しかし、「プラスの時は喜び、マイナスの時は悲しむ」のでも良いと思います。感情を捨て去ったら、その人はもう「人ではない」と思います。


 しかし、良いこと・悪いことが「客観的に決定できない」としたら、どうでしょうか?


 逆に「決定できる」というのは、「座標軸がはっきりしている、よってy(t)の値を逐一判断できる」ということを意味している事になります。ですが、人生ってそんな単純でしょうか?


 私は、鬱を患いました。鬱は「不幸」の代表的な出来事だと思います。時間tにおけるY(t)は、絶対にマイナスでしょう。少なくとも、「客観的」においては・・・


 しかし、わたしは、鬱により悟れたことが沢山あります。「鬱になれて良かった」とまで思っています。現時点tにおいては、Y(t)はプラスのはずです。ですが、鬱の時のtにおいても、私はY(t)がマイナスだとは言いたくありません。苦しかったけれど、それはそれに過ぎないと・・・。


 それと、時間軸tというのは本当に、線形的に右に一定の速度で流れているのでしょうか?


 時間の流れは、「1分=60秒で、一定の速度で流れている」というのは、多くの人が「常識」として考えていることですが、禅的な考え方をするならば、「今しかない」という事になります。


 多くの人は、「今」という時を、将来の目標達成のための「手段」として利用する傾向にあります。また、「過去の出来事」により、「今の感情」を支配されています。


 多くの人は、「今」を生きていません。


 私が、考えていた「最適化」という考え方は、時間軸は一定に流れるが、座標軸は「可変」であるため、「座標軸を今現在が幸福であると考えられる座標軸に変えましょう」というものです。


 この考え方は、画期的だと思いますが、時間軸が流れないのであれば、この考え方自体「あやまり」となります。


 ですが、時間という幻想はとても強いため、そこから解放されるのは容易なことではないと思います。それですので、この現実に生きるのであれば、座標軸を可変にする「最適化」法は生きやすい生き方かも知れません。


 しかし、これは自己欺瞞になってしまうおそれがあります。自分の感覚を偽って、「熱いものを冷たく感じよう」という考え方にも通じるからです。


 「心頭滅却すれば火もまた涼し」は「自己欺瞞」の領域も存在するでしょう。しかし、本当に「心頭滅却」できたなら「自己欺瞞」ではありません。


 最適化も完全に座標軸を自分の全知能を傾けて変更できるなら、どんな状況でも『最適化』することはできます。


 「豊かさとは、豊かであるという感覚を感じていること」とエックハルト・トールさんが言いましたが、最適化とは、どんな時でも「豊かである」という判断しかしないという境地だと思います。


 わたしたちが、アセンション後に行く世界とは、「豊かしか感じない世界」なのではないかな?と思っています。


 この世界は、「欠乏感」が動機となって動いている部分がほとんどです。


 「時間がない・・・。お金がない・・・。資源がない・・・。」「今のままでは、全人類が滅んでしまう・・・。だから、残るべき者だけを残し、後は駆除しよう・・・。」「あいつらはまだ持っている。それはまだ取り上げることができるはずだ。まだ9割しか手にしていない。残りの1割を手にしよう・・・。」


 このような想念が現実化しているのが、「今」なのだと思います。


 ですが、あなたが感じている「欠乏感」は本物でしょうか?あなたは「時間がない」と言いますが、本当に時間がないのでしょうか?(ここで言っている時間はノーマルな意味での時間です。)必要のないことをやっているため、必要なことをやるための時間がなくなっているだけではないでしょうか?


 あなたは「お金がない」と言いますが、進学のための資金は本当に必要なのでしょうか?進学しなかったら、そのお金は必要なくなるでしょう。何のために進学するかは考えていますか?


 優先すべきことを優先すべきです。それも最適化の一部です。


 あなたが、なくてはならないと考えているもののうち、ほとんどが「あったらいいな」レベルの物です。そんなあなたは、最も大切にしなくてはならない「唯一のもの」を大切にしていません。それは、「あなたであること」です。


 あなたがあなたであることが、あなたの宇宙におけるあなたの目的です。そのための手段として、あなたは時間軸と肉体をもってこの世界を生きているのです。最終的には、その「時間軸」と「肉体」を捨て去る時が来ます。アセンションという形で来るか、肉体的な死という形で来るかはわかりませんが・・・。


 ただ、どちらであっても大差はありません。あなたが、今現在あなたでありさえすればいいのだと思います。


 2011/11/28(月)


 「いい気分になる」のと「いい気になる」のは似ていますが、混同してはいけないと思います。



 「いい気分になる」のと「いい気になる」のは似ていますが、混同してはいけないと思います。


 例えば、電車で老人や妊婦に席を譲ったとします。譲った人は「良い気分」になると思います。これは、自然な反応ですし、そのように感じる事は良いことです。


 しかし、そのように感じた人が、「今の日本人にはそのように対応できる人が少ないよね、なってないよね!腹が立つよ!」とまで言ってしまうと「いい気になっている」と言わざるを得ないと思います。


 これは、スピリチュアリストを名乗る人にも言えることです。スピリチュアルな真実に触れると「良い気分」になります。しかし、そのように感じた人が、「俺は、普通の人とは違うんだよね、目覚めているんだよ!」と言って、「優越感」に浸るのであれば、「いい気になっている」という事になるのだと思います。


 以前身障者の人が「威張るな健常者、おごるな身障者」というようなことを行っていたと思いますが、これも同じ事を言っていると思います。障害者の方のフォローをするのは、健常者の当たり前の事ですが、「やってもらって当たり前、もっと税金を使ってハードを整備しろよ!」という障害者は「いい気になっている」と言えるでしょう。


 「やってあげたい」という気持ちと「ありがとう」という気持ちのやり取りで、行為が行われたら、誰もが「良い気分」になれると思います。


 しかし、そこで「やってあげられた私は良い人だけど、できない人は許せない!」という気持ちと、「やってもらって当たり前!」という気持ちの間で、行為が成されたなら、どちらもが「いい気になっている」のだと思います。


 「わがまま」は悪い意味で使われますが、「我が儘」「善行」を行うのが、本当に意味での「善行」だと思います。我が儘に善行を行ったなら、良い気分にはなれても、いい気にはならないと思います。


 脱原発を訴えることは「良いこと」だと思います。しかし、それから「体制批判」に転じ、「あいつ等が日本を悪くした、俺たちは被害者だ」というだけなら、「いい気になっている」と言えるかも知れません。


 彼らのことを悪く言うということは、相対的に「自分たちは正しい」と言っていることになるからです。


 同じ次元で良い悪いを論じるのではなく、それらを超えたところで、「成すべきを成す」ということが大切だと思います。


 マザーテレサは、「反戦運動には参加しません。平和運動ならば喜んで参加します」と言っていたそうです。反戦は、戦争を進めてきた人と同じパラダイムでの活動になると思います。しかし、平和運動は、戦争とは関係のない次元で活動することができます。


 私は、陰謀論というものも承知していますので、世の「悪」と言われる人の活動も理解しているつもりです。できれば、それらの活動をやめてもらいたいと思いますが、彼らと戦う気はありません。戦うと言うのであれば、テロを起こす人と同じ次元に降りてしまうことになるからです。


 テロを行う人が「正論」を言っていたとしても、手段が間違っています。暴力に暴力で対抗しても、恨みを増大させることにしかなりません。暴力を「ありのままに受け容れる」ということが、負のスパイラルを断ち切ることになるのだと思います。


 イエスの十字架は、神聖なものとして扱われています。しかし、十字架は本来、拷問刑の道具です。ですが、イエスがそれを「甘んじて受け容れた」事により、神性をまとうようになったのだと思います。(イエスは十字架には架かっていないという説があるということも、承知しています。とりあえず、常識の範囲で記事にしています。)


 「我が儘」とは、「あるがまま」を「私という観測者なりに受け容れる」ということで、悪い意味ではないと思います。「他が儘」の人生があったとしたら、あなたはその人生を生きたいと思いますか?





 2011/11/24(木)


 「豊かさとは豊かであるという感覚」だそうです。



 以前、バシャールの豊かさの定義を取り上げました。それは、


 Abundance is the ability to do what you need to do when you need to do it.


 日本語に訳すと、「豊かさとは、やる必要のあることを、やる必要のある時にやれる能力」となります。


 その通りですよね。


 また、エックハルトトールさんは、次のように言っています。


 Abundance is the feeling of aboundance.


 日本語に訳すと「豊かさとは、豊かであるという感覚」となります。


 これもまたそのとおりですよね。


 人によっては、「やれる能力があっても、不幸ってこともあるでしょ!」と言うでしょうが、それは、「やる必要のないこと」なのです。やっても「幸福になれない」ことであるなら・・・


 昨日、長女の期末試験の勉強を見ました。「やりたくなければやらなくていいよ」と言っていますが、「順位が気になるのでやる!」と言っているので、点を取るための技術を教えました。


 教えた教科の中に、保健体育がありました。その中で、脳の働きについての項目があり、脳の働きは「①知識・②感情・③判断」等があると書いてありました。


 「この中でコンピュータで置き換えることができるのは何?」と娘に質問しました。上手く答えられないでいたので、「①が100%、②が0%、③が50%、コンピュータで置き換え可能」と答えました。


 試験勉強は、①を問うのがほとんどです。ググったり、wikiったりすることで、調べられることを覚えても、「意味はない」と思いますが、それを問われるのが、学校教育です。


 ③も、公務員や法曹界の人の「判断」であるなら、「前例」から「容易に推測」することが可能なため、コンピュータ化は80%から90%はできると思います。っていうか、コンピュータのような「正確さ」を要求されます。無意味ですけど・・・


 例えば、政策仕分けにあげられた「もんじゅ」ですが、普通に考えたら「即刻廃止」でいいはずですが、それを継続させるのが「能力のある官僚の仕事」です。核分裂エネルギーの利用自体不必要なのに、その「リサイクル施設の確保」が必要であるはずはありません。


 まあ、この辺を愚痴るときりがないのでやめます。


 人間に本当に必要のものは、②なのだと思います。すなわち「感情」です。「何をどのように感じるか」が、「あなたがあなたである所以」であり、「あなたが幸せであるために最も必要なこと」だと思います。


 世の中に「虚栄心」「名誉欲」「顕示欲」などを満たされることに、「至福」を感じる人もいますが、あまり質のいい「快」ではないと思います。ですが、世界を動かしている人の「エネルギー源」になるのが、これらなのです。


 これらを満たすために、9割の人が不幸になりやすい環境に追い込まれていきます。


 野に咲く花を見て、イエスの説かれた神の愛を思いだせることに「至福」を感じることができるとしたら、「幸福でいられる」可能性は先の例よりとても高くなると思います。


 音楽であるなら、「演歌」より「クラッシック」のほうが「気持ちいい」と感じられる「感性」である方が「幸せでいられる」可能性は高いと思います。


 高級フランス料理より、娘の手作りケーキのほうが「おいしい」と感じれられる「感性」である方が「幸せでいられる」と思います。


 ここにあげた幾つかの例を「どのように感じるか」だけを「問う」ただけでも、その人の「ひととなり」が分かりますし、幸せでいられる可能性が「高いか低いか」も分かります。


 不幸になりやすいものを求めると、幸せでいられる可能性が低くなるのは当然でしょう。先にあげた「虚栄心」「名誉欲」「顕示欲」などを求め続けるなら、幸せを感じられる可能性は低いと思います。


 「豊かさ」を求めるなら、今すぐにでも幸せでいられます。なぜなら、「豊かであるか・否か」の判断は、あなたの「感情」によって判断されるからです。あなたが、十分なお金があると思っているなら、今でも十分なお金があると言えます。


 世界中の富の9割を独占していても、「まだ1割は自分のものではない!」と感じてしまうなら、あなたは「豊かではない」のです。エックハルト・トールさんの言っていることは、このようなことだと思います。


 あなたも、わたしも、今のままで十分なのです。そう思っていられたなら、ますます与えられるようになると思います。


 2011/11/22(火)


「新しい世界が来る」と聞いたら、良い感じがしませんか?



 「新しい世界が来る」と聞いたら、良い感じがしませんか?しかし、「この世が終わる」と聞いたら、嫌な感じがすると思います。


 これは、同じ出来事を、「ポジティブな面から見た反応」と「ネガティブな面から見た反応」と言えると思います。


 2012年12月21日でマヤ暦は終わっていますが、それが転じて「この世が滅亡する」「地球が消滅する」というような誤解が生じていると思います。


 マヤ暦が終わっているだけで、この世が滅亡するのではないと思います。ただし、現在のシステムは崩壊すると思いますが・・・。


 では、崩壊する現在のシステムとは何でしょうか?それは、資本主義の崩壊だと思います。しかし、共産主義が台頭するという意味でもありません。資本主義vs共産主義という構造は、過去のパラダイムです。


 新しい社会とは、これを超越したところで展開されると思います。


 特に現在の資本主義は、「金融市場『至上』資本主義」です。企業は、株主のためのものにされています。アメリカでは特にそうなっており、日本でもバブルが崩壊した後に、外資系に乗っ取られることによって、この傾向が強まっています。


 TPPが悪い意味で進むと、日本も同じ状況になります。先日、マイケルムーア監督の「SICKO」という映画を見ました。アメリカでは、「保険に入っていても、医療が受けられない」という状況が展開されています。


 保険会社が利益を追求するあまり、「保険金非払い」を「企業目標」「人事評価項目」に掲げたためです。保険の自由化ということは、これらの企業が日本に入ってくるという事です。


 保険とは、本来、営利目的ではなく「互助会的」なものだったはずです。それが、利益を追求するようになったために、今のような社会になってしまったのです。


 SICKOの中では、イギリスやフランスが「医療費無料」ということを取り上げていました。これはこれで素晴らしいことですが、その国力を維持するために、第三諸国を食い物にしているという事実もあります。


 欧州は、大航海時代にアフリカやアジア諸国を植民地にしてきました。外面的には、植民地はありませんが、実質上はまだまだ植民地状態の国は多々あります。


 「それは、その国がやる気がないからでしょ?」


 というご批判が聞こえてくるのがわかりますが、やる気のある国を滅ぼしてきたのが欧米諸国なのです。


 リビアのカダフィ大佐が殺されましたが、彼が殺された理由は、「独裁主義で自国民を殺した悪党」という理由ではありません。表向きは、そのようにみえるかも知れませんが、実体は違います。


 カダフィは、アフリカ独自の①経済圏と②通貨と③情報インフラを整備しようとして、殺されたのです。これらが、確立されると「欧米」の経済的豊かさは、減少するでしょう。それを恐れたため、NATOはリビアを攻撃したのです。


 カダフィはそのための資本を、スイス銀行などに「預金」していました。それらが、「預金封鎖」という形で、欧米諸国のものにされるようです。


 「大量破壊兵器を持っている」という理由で、イラクのフセインが攻撃されましたが、結局は大量破壊兵器は発見されませんでした。


 しかし、仮にあったとしても、大量破壊兵器を持っている国は、多々あります。特に問題なのは、最も所有している国が、イラクを攻撃しているという矛盾です。


 イラクが攻撃された理由は、アルカイダとは全く関係ありません。フセインが原油取り引きの通貨を「米ドルからユーロに換えたこと」がその原因でしょう。実際、イラクを陥落した直後にアメリカがしたことは、「原油決済を米ドルに戻す」ということだったそうです。


 終わるのは、「こんな世の中」です。「お金が全て」という世の中が「終わる」のです。


 「能力に応じて働き、必要に応じて取る」という世界が実現するのです。


 この考え方は、マルクスの共産主義そのものですが、共産主義は失敗しました。失敗した理由は、この考え方が「誤り」という事ではなく、「それを実現できるだけの精神が啓発されていなかった」という事に過ぎないのです。


 「人より多く欲しい!」という考え方が強い場合、先の理念を実現することはできません。


 「困ったときは、お互い様」が基本的に必要です。「人を命を奪ってでも、お金を儲けたい!」というのがアメリカの「企業トップ」の考え方であり、彼らと共に「甘い汁」を吸おうとしているのか「投機家」と言われる人達です。


 彼らが、作っている社会が「金融市場『至上』資本主義」です。これが生みだす社会は、「格差社会」です。もちろん「貧しくても平安」でいることは可能ですが、感じられない人も多いと思います。


 彼らが起こしているのが、オキュパイムーブメントです。


 持っている人は、失うものは多いかもしれません。しかし、元々持っていない人が多いこの世の中では、失う人は少ないです。それを心配するよりは、この金融市場至上資本主義が終わることを歓迎しましょう。


 また、「能力の応じて働き、必要に応じてとり、自分の働きが多くても気にしない(っていうか人の為に働ける方が幸せでしょ?)、自分の必要な量が少なくても気にしない(っていうか少なくても幸せって感じられる方が幸せでしょ?)」という心持で生きられるようにしましょう。


 そのような人達が作る世界は天国のようだと思います。しかし、「もっと多く!」を求める「餓鬼たち」にとっては「地獄」でしょう。


 天国と地獄には、同じものがあると聞きます。ただ、それを「どのように感じるか」だけが異なるのだと。


 「自由・平等・博愛」の社会を天国と感じるか、地獄と感じるかは、「あなた次第」なのだと思います。わたしは、天国であると感じられる人間でありたいと思います。


 2011/11/21(月)


 「這えば立て、立てば歩めの親心」って、良い川柳ですかねー。



 「這えば立て、立てば歩めの親心」って、良い川柳ですかね-。


 私は、ちょっとクエスチョンです。


 「じゃあ歩んだ後は何を求めるのですか?良い幼稚園ですか?その後、良い大学ですか?医者か弁護士にするのですか?」って思ってしまいます。


 私の二女は、先天性風疹症候群として生まれました。生まれる前に、「死産のおそれもある」ということで、大学病院での観察→出産となりました。


 生まれる前から、「目が見えないかもしれません。耳が聞こえないかも知れません。一生歩けないかも知れません。だだ、生まれてみなければわかりません。その覚悟はしておいてください。」と散々脅されました。


 家内は、ショックを受けていましたが、わたしは、「なるようにしかならない」し、「なってから考えればいい」と思っていました。


 生まれて数週間後に、「目と耳には問題なさそう」ということはわかったのですが、「脳が石灰化している部分がある」「脳の奇形がある」とのことでした。それが、どのように影響するかは、「経過を見ていかないとわからない」との事でした。


 娘が生まれた時は、NICUの隔離室に入れられました。他の赤ちゃんに感染するおそれがあるからということでした。


 NICUには多くの「悲惨に見える」赤ちゃんが一杯いました。「可哀想」と思ってしまいましたが、そう思うこと自体「失礼」だと思い、思わないようにしていました。ですが、両親から見捨てられている赤ちゃんがいたことも事実です。


 何年も面会もされず、5歳になるというのに、カラス箱に入れられている子がいました。今思い浮かべても涙が出てきそうになりますが、その子も意味を持って生まれてきているはずです。


 私の子どもは一週間程度で、そこから出ることができましたが、いつまでも寝返りを打ちませんでした。うつ伏せにしても四つん這いになることができませんでした。頭の大きさも、グラフの範囲に収まらない程小さかったです。


 家内は、娘の頭囲を計ってはため息をついていました。ちゃんと育つのだろうかと・・・


 そんな矢先に私が仕事上の問題で鬱になり、一年半後に精神病院に入院しました。その間、家内はほぼ一人で二人の子どもの世話を見ていたので、辛かったと思います。


 とある冬に二女がインフルエンザになり、熱性けいれんで救急車で病院に搬送されました。元々、先天性の病気を持っているため、助かったとしても脳に後遺症が出ることを覚悟しました。病院には、睡眠薬でふらふらの自分が付いていきました。長女の世話のために、家内が同行することができなかったためです。


 「自分がいつ死ぬかわからない(自殺という意味です)」という状況で、「娘の死に直面するかも知れない」と思いながら、救急車に同行しました。緊急病院で、医師が処方してくれていましたが、芳しくないようにも見えました。「ダメなのかな・・・」とも思いましたが、「なるようにしかならない、なった結果は受け容れるしかない」と覚悟を決めている自分がいるのがわかりました。


 今でも、その時の事は、昨日のことのように思い出されます。


 娘は、現在、特別支援学級に通っていますが、我が家は決して不幸ではありません。親が鬱で入院し、娘が障害を持っているといったなら、周りからは不幸な家庭に見えるかも知れません。しかし、我が家は間違いなく幸せです。


 娘は、「這わないかも知れない、立たないかかもしれない」と言われていましたが、そんなことは幸・不幸には関係ないと思います。「這えば立て、立てば歩めの親心」という川柳は、「親のエゴ」をうたっているだけのようにも思えます。もし親が自分の子どもを「自分のもの」と思ってしまったら、そうなってしまうと思います。


 娘は、生まれる前から、私のかけがえのない子どもでありますし、今後もずっと私の子どもです。ですが、「私のもの」と思ったことは一度もありません。娘は、私たちの事を選んで生まれてきてくれていると思いますし、娘の病気もそれはそれで意味のある事だと思います。ですが、それにどのような意味があるかは、私達が私達自身で意味付けすることになるのでしょうけれど・・・


 ヘレンケラーは三重苦で生まれましたが、彼女はそれを自分を表現する為の、単なる条件に変えたのだと思います。障害や境遇はあくまでも条件であり、それが幸・不幸を決定する訳ではないと思います。


 生まれてきた意味を模索する必要はありません。生まれてきたこと自体、あなたの存在が肯定されていることになるのだと思います。(偉そうに言ってしまいましたが、そんな自分が一番厭世主義を生き、モラトリアムしてました・・・)


 「実在するもの(=意識という意味です)は、なにひとつその存在がおびやかされることはありません。存在しないないものは、存在しません。ここに神の平和あり。」(ACIMより)とあります。これが真実だと思います。


 キーシャ・クラウザーの言うように私たちは、「最強中の最強の存在」なのかも知れません。この変容の時代を選んで地球に生まれてきたのですから・・・


 2011/11/18(金)


 「私は世界一幸せ!」ってよく言いますが、ちょっと問題ありかな?って思います。



 「私は世界一幸せ!」ってよく言いますが、ちょっと問題ありかな?って思います。


 もちろん、幸せを感じていないよりは、感じている方が良いことなのですが、「世界一」って言う部分が、ちょっと心配です。


 この世界一が「自分の世界という意味での世界の中で自分は世界一幸せ」という意味であるなら良いのですが、「この実社会を世界として表現し、その中での世界一幸せ」という考え方なら、そのパラダイムは変更する必要があります。


 後者の意味で「世界一」と言ってしまうと、「他者と比較した結果」ということになってしまいます。なぜ問題かというと、幸せとは他者との比較の中で決定されるものではないからです。


 仮に、他者との比較の中で幸せを感じているならば、いつかその幸せがおびやかされるのは明らかです。または、その危機におびえながら過ごすことになります。


 世界チャンピオンになり、「世界一幸せ」という表現をしたとします。しかし、いつかは「破られるか・引退すること」になります。その時、そのチャンピオンは「幸せではなくなる」ことになります。そのパラダイムが転換されない限り・・・


 私は、現在幸せです。無責任に思われるかも知れませんが、幸せです。


 もちろん、世界の多くの人が「不幸」と言われる環境下で過ごしていることは、承知していますし、それを改善したいとも思っていますし、その思いで活動しています。


 ただ、その人達のことを思ったとしても、私は幸せを感じているのです。


 「震災で苦しんでいる人がいるのに、自分だけ幸せでいるなんて非情だ!」と言われるかも知れませんが、現実世界と関係のないところで、わたしは幸せなのです。


 今朝も、猫を抱っこしながら、ネットをチェックしているときに、「幸せだなぁ~」と感じました。チェックしているネットは、「陰謀論」を扱っているところや、「時事・政治」を扱っているページです。


 それらをチェックし、「何ができるのか」を考えてはいるのですが、「自分は幸せ」なのです。「平安」と言った方が適切かも知れません。


 「不幸な状況であっても、平安であることはできる」とエックハルト・トールさんが言っていました。今の自分の状態はそれに近いのかも知れません。


 客観的に見たら、問題や心配事を、私の生活の中から見つけ出す人もいるでしょう。しかし、客観は本当の意味では、観測者の数だけ存在しているはずです。量子力学の結論から言った場合ですが・・・。


 それですので、わたしは客観をあまり信用していません。現時点においてですが・・・


 かつては、客観的な真理というものを見出そうとしていましたが、現在は、そんなものは存在しないという風に思っています。


 昨年、サンデル教授の講義に傾倒したとき、正義について色々考えました。サンデル先生は、私が信奉している「J・S・ミルの功利主義」を否定していましたので、反目していました。


 サンデル先生は、難破船の例を持ち出しては、「功利主義は命を数で判断する」と言って非難していましたが、わたしは「???」と思っていました。難破船の話を知らない人は、wikiってください。スイマセン。


 真の功利主義者が、死にかけた水夫であるなら、自分の肉体を食糧として喜んで差し出したはずです。また、反対に食べる側が真の功利主義者であるなら、その死にかけた水夫と共に死を待つはずです。真の功利主義者が、観測者としてどちらの立場に立つかによって、正義は異なるのです。


 真の功利主義者とは、「己の如く汝の隣人を愛せよ」というナザレのイエスの黄金律に「最大限の快」を感じる人の事を言います。


 それを「客観的な正義は存在する」「コミュニティを尊重するのは正義である」というような論法を持ち出して、世界警察として世界を戦争の渦に引き込もうとしているアメリカの片棒を担いでいるのが、サンデル教授なのだと思います。日本も相変わらず、白熱教室を放映しています。僅かに残る日本の知識階級を貶めようとしている戦略を感じます。


 でも、それはそれで「しょうがない」と思います。この「しょうがない」は先日のブログでも書いたように、いい意味での「あきらめ」です。「人事は尽くすが、結果は天命」というスタンスです。


 NHKの白熱教室で、洗脳されてしまう人もいると思いますが、そこから目覚める人もいると思います。その人に「目覚める気」があるなら、きっかけは与えられるはずです。この講義はそのきっかけになる人もいると思います。それですので、「まあ、いっかな?」と思っています。


 バシャールのいうところの輪ゴムの論理で、世界は夜明け前、ますます暗くなるかも知れません。しかし、それは「しょうがない」ことだと思います。


 ただ、私たちは、光を求め続けるべきだと思います。目覚めていない人には、目覚めてくれるまで根気よく機会を提供できるようにしていきましょう。そうすれば、いずれは目覚める人が増えていくと思います。


 もちろん機会を提供する自分は「幸せに包まれながら」です。この軸がぶれてはいけないと思います。


 2011/11/17(木)


 あなたは未知のことをやるときにどのようにお感じになりますか?



 あなたは未知のことをやるときにどのようにお感じになりますか?


 「はじめての事は面倒くさい」「失敗すると嫌だ」


 という意見もあると思います。その反対に、


 「何が起こるかわからないのでワクワクする」「期待で興奮する」


 という方もいらっしゃると思います。


 「いや、対象が何かによって異なるよ」


 ということをご指摘する方もいらっしゃるでしょう。例えば対象が、仕事か遊びかの違いなどです。


 お役人の仕事は、「前例がない」ということで、未知の仕事を敬遠する傾向にあると思います。


 しかし、民間は、「他社と同じ事をやっても儲からないよ!」といって研究開発に力を注ぎます。


 仕事が、単なる「労働力に対する対価を得る行為」であるならば、「ストレスが少ない方が良い」という考え方が成り立ち、「前例踏襲」が意味あることになるかも知れません。


 しかし、仕事が「創造性の発揮の場」であるならば、「個性を発揮するべき」であり、「新たなことをやるべき」となると思います。


 あなたは、仕事をどのように捉えていますか?


 偉業をなすことが大切だとは思いませんが、偉業を為し得た人々は、「仕事」と「遊び」と「自分が成すべき事」を分類せずに生きていたと思います。それですので、偉業を為し得たのだと思います。


 深山のお寺で一生修行し、満足して死んでいった人も、「仕事」と「遊び」と「自分が成すべき事」を分類せずに生きていた人だと思います。人から見たときに、偉業というものは為し得ていないように見えるとおもいますが・・・


 学校教育では、前例踏襲を是とする人種を生みだしてきました。法曹界や官僚界の人達です。政治家もそうかも知れません。お医者さんの多くもそうでしょう。学校の先生もそうですね。


 彼らが生みだしたシステムが、機能不全を起こしているのが「今」なのだと思います。


 既存のシステムを脱ぎ捨て、新たなシステムを生みだすには、「一人ひとりの創造性の発揮」が不可欠だと思います。


 新たな地球では、軽んじられる命は一つもなくなるはずです。誰もがかけがえのない個性として、神の個性の1ピースを表現するのだと思います。どのピースが欠けても、パズルは完成しません。


 もちろん、ピース・ピースの大きさは異なるでしょう。しかし、全体を形作る上での重要性においては、上下はありません。


 その一つひとつのピースの独創性があればある程、全体として表現される作品も優れたものになると思います。


 ひょっとしたら、平面だと思っていたパズルは立体になるのかもしれません。それが、次元上昇という言葉であらわされる世界なのかも知れません。


 全ては初めての事ですが、「初めてなので面倒くさい」「失敗するかも・・・」として、このゲームに参加しないという選択ももちろん可能だと思います。しかし、参加したい人は、自らが変化の1ピースとなることで、全体の変化を起こすことができることになると思います。


 ゲームは見ているより、参加したほうが面白いと思います。よろしかったら、「今・ここ」から、変化というゲームを始めてください。


 「世界に変化を望むなら、あなたがその変化になれ!」byガンジー だと思います。


 2011/11/14(月)


 あなたは人との意見の違いを感じた時、どのように対応しますか?



 あなたは人との意見の違いを感じた時、どのように対応しますか?


 これは、人により様々だと思います。思いつくままに、リストアップしてみます。


   ①「なにぃ!ふざけるな!」


   ②「えっ、そんな風に思うの?軽蔑するわ」


   ③「(無言)」


   ④「へー、そういう風な考え方もあるのねー」


   ⑤「そーだよねー。普通そう考えるよねー(心の中では、反論している)」


 思いつくままに書いたつもりでしたが、「攻撃的な意見から穏和な意見へ」と並んでしまいました。


 その場を、取り繕うならば⑤のような対応で十分かも知れません。しかし、このような対応ばかりしていると、自分の心に「無理」が来ます。最悪、鬱になると思います。


 仮に、鬱にならないとしたなら、いずれ、心の中の「反論の声」が小さくなっていくかも知れません。これには、言い意味と悪い意味の両方が含まれています。


 相手の意見が正当であり、自分の方の考え違いが正されるならば、それは良いことなのかも知れませんが、その逆だったら悪いことになります。


 ①は、自分が正しいと思っている人の反応で、本当に正しいのなら、害は少ないかも知れませんが、誤っていたなら最悪です。特に、リーダーとか政治家がこのような対応を取る場合、注意が必要です。


 かつて、小泉さんが首相のとき、このような発言をしました。


 「そのような理屈は、この小泉政権には通用しない!」と・・・


 その結果は、国の資産を外国に安価で譲り渡すことになりました。そのように考えない人もいることは承知しておりますが・・・


 長期的に考えた場合、③④を改善させると、最も価値のある結果を生み出すことになると思います。


 STEP1「へーそんな風に考えるんだ。でも、わたしは○○○のように思うんだよね。」


 お互いが別々な価値観を持っていても言い事柄については、ここまでで話を終わりにするので良いと思います。例えば、趣味・嗜好のレベルの話です。


 STEP2「上手くやっていくには、両者の考えのどちらか一方を取るか、それとも別のアイデアを考える必要があるね」


 全体として、一つの価値観・方法を取らなければならない場合、このステップに進む必要があります。例えば、会社の運営や政治の話です。


 現在、民主主義の名のもと、数による政治が行われていますが、これは民主主義ではないと思います。民主主義とは、誰もが納得するような形で進められるものであり、一部の人達が数による暴力で進めるものではありません。


 数による暴力ならまだマシですが、「既得権益による暴力」は絶対にいけません。


 これは、独裁者と言われていたフセインやカダフィのことを言っているのではありません。アメリカや日本、EUを動かしている人の事を言っています。本当の世界情勢をご存じない方にはよくわからない事かも知れませんが・・・


 彼らの考え方と私の考え方は違います。ここで、冒頭の「意見の違い」の話になります。


 私は世界を良くしたいと考えていますので、①や②のような反応でした。しかし、それは、「彼ら」がやっていることと同じなのです。同じパラダイムの上での是非なのです。


 アセンションを迎える地球においては、この次元での是非でうんぬんしていってはダメだと思うのです。私たちから、ノーサイド(どっかでききましたね)と言ってあげるしかないのだと思います。


 彼らが、その申し出を受け容れるかはわかりません。彼らが、その申し出を受け容れない場合、この世界は本当に崩壊するでしょう。しかし、それはそれでしょうがないことだと思います。


 彼らもこの地球に生まれたものです。排除されるべきではありません。もちろん、私たちも彼らから排除されるべきではありません。しかし、彼らによって私たちが排除されるとしても、それはそれでしょうがないことだと思います。


 彼らは、私の命を奪えたとしても、私から平安を奪うことはできないのですから。そんなものを恐れてもしょうがないですよね。


 しょうがないという言葉に、ネガティブを感じるとしたらあるがままという言葉に置き換えてください。全ては、あるがまま完璧なのだと思います。


 2011/11/9(水)


 「なるようにしかならない」という考え方は、誤りだと思います。



 よく人が開き直るときに、「なるようにしかならない」と言いますが、「なるようにしかならない」という考え方は、誤りだと思います。


 「なるようにしかならない」という考え方は、①決定論的である。②受動的である。という2点から誤りだと思うのです。


 まず、決定論ですが、決定論は誤りです。決定論は「未来は決定されている」という考え方ですが、この考え方は、量子力学の実験結果から誤りであることが証明されます。


 量子力学では、「観測者が観測するまで、状態が一つに決定されることはない」という実験結果を示しています。このことから、決定論が誤りであることは明らかです。


 また、受動的な生き方も誤りです。受動的な生き方をしたとしても、あなたが受動的な選択を能動的にした結果によって、宇宙がその波動に見合ったものを引き寄せてきます。


 それですので、投げやりな意味で「なるようにしかならない」と言ってしまったなら、そのような結果が引き寄せられてしまうのです。


 「人事を尽くして天命を待つ」という境地に達した後での、「なるようにしかならない」なら良いのですが、多くの場合、「投げやり」な「なるようにしかならない」だと思います。


 宇宙は、あなたが行った選択により逐一変化し、その結果をあなたがどのように受け取るかで、その波動にあったものを宇宙は提供するのだと思います。


 それですので、あなたがポジティブな選択をし、その結果をポジティブに受け取ったなら、ポジティブな状況を引き寄せるのだと思います。


 「でも、そんなのは詭弁でしょ?不幸な人は不幸なままよ!」


 というような反論が出てくると思います。まず、幸・不幸は、その人の反応です。状況をネガティブに受け取ると「不幸」になるのだと思います。


 「そんな事言っても、貧しい人は不幸でしょ!」


 と反論されると思います。貧しいことは、不幸になる可能性が高い状況だと思います。それは、否定しません。しかし、富んでいても不幸な人もいます。その逆に、貧しくても心豊かに生活している人もいます。


 貧しい状況は不幸を引き寄せやすい状況ではありますが、不幸そのものではありません。


 また、不幸だとしても、あなたがそれをそのまま受け容れたら、こころの平安は確保されると思います。


 今回の震災で、家族を失った人は、不幸だと思います。それを幸いだと思え!と言っているのではありません。起こってしまったことは、どうにもなりません。悔やんでも、恨んでも・・・


 そのような状況を受入れ、今を平安に生きる事が、その人のできる全てだと思います。


 そのような生き方をしていたのなら、不幸と思われた状況を乗り越えることができると思います。そして、そのような状況を乗り越えた人は、また幸福に包まれることができると思うのです。


 失った家族とも、また再開できると信じています。宇宙はそのようにできていると思います。

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