2012年9月

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 2012/09/13(木)


 『あたりまえ』とか『ありがとう』とかについて書いてみます。篠﨑由羅さんの記事への返信記事です。



 由羅さんの記事に同意出来ない部分があるため、記事にしてみます。先に由羅さんのリンク記事をお読みください。


 もちろん、由羅さんの言わんとしていることは充分に分かります。ですが、この記事だけでは、誤解をする人も多くいると思う点と、記事の内容は独善的な面もあり、かつ、強者の理論である部分も見受けられると思ったため、自分の意見を書いてみます。


 必要以上に、批判的に書いていますが、由羅さんに対してネガティブは気持ちは一切ありません。ですが、由羅さんの強さやその基準に追いついていけない人のために、その気持ちを補完する意味を込め、あえて批判的に書いてみました。


 もちろん、由羅さん自体が、この記事により不快な思いをなされないことも理解しています。彼女はそんな次元の低い人ではありません。異なった意見をくみ取り、昇華してくれることは明らかです。よって、この記事を読まれる方は、その点についてはご心配頂かなくて結構です。


 以前、クリスチャンの方と意見の相違があったとき(一方的に喧嘩を売られました)は、相手が次元の低さを露呈して、捨て台詞を残して去っていきました。


 私と由羅さんはmixiで繋がっていますので、直接メッセージ等を送ればいいと、この記事を読まれる方の中には、そのように思われる方もいらっしゃると思いますが、これらのやり取りにより気づいてくださる方もいると思い、公開としました。



 『あたりまえ』という言葉について



 『あたりまえ』という言葉は、使い方によって、強者が弱者に対して自分の価値観を強要する言葉にもなります。善意に対して『ありがとう』というのは『あたりまえ』という基準の人もいますが、そうでない人も・国もあります。


 本題に入る前に、自己顕示欲の表れとして『あたりまえ』という言葉を使っていた知人の話をします。


 彼女は読書家で、皆から『偉いね~』と言われていました。それに対して彼女は『私は偉いわけではありません。あたりまえの事をしているだけです。』と、事ある毎に応えていました。


 しかし、彼女は『偉い』と言われることに酔ってもいましたし、『あたりまえ』という言葉には、『読書をしない人は、あたりまえの事さえできていない』という非難的な意味も含まれてしまうという事に気づいていませんでした。


 その女性に、私がイエスを信じているというと、『クリスチャンの家庭の子は、ぐれている子が多い。その理由は、親が愛を、その子だけに注ぐのではなく、広くあまねく、多くの人に愛を注ぐからだ!だから、自分の子どもへの愛が減り、子どもがぐれるのだ!』と持論を展開していました。


 彼女は、読書家を自負していましたが、この程度の所見しか持てないのであれば、いっぱい読んでいるとしても、読むに足らない本を読んでいるか・良書を読んでいるとしても理解力が低すぎるか、のどちらかと言えるでしょう。


 クリスチャンの子がぐれるのは、その親の信仰のレベルが低いか・属する団体の教えが低いか、のどちらかか・その両方かです。


 先日、日本史上最悪と言われているカルトの教祖が亡くなりました。彼は、自分の事を再臨のメシアだと公言していました。


 しかし、その邪教と言われる宗教をきっかけにして、初めて聖書やイエスに触れた人もいたことでしょう。その中から、本当の神に触れた人もいたと思います。邪教であったとしても、その人に真に求める気持ちがあったとしたら、本当の神やイエスにつながれたと思います。


 宇宙は想像さえ付かない方法を施し、その人と全世界を救済しようとするのでしょうから。


 邪教は生まれる必要はなかったはずです。しかし、人間の意識が低かったために、邪教が生まれるのでしょう。正統と言われるキリスト教もイエスの教えとは異なっています。それは、ローマ帝国が統治機構として、イエスの教えを悪用し、正統と言われるキリスト教を生み出したからです。


 正統といわれるクリスチャンも、ねつ造された聖書と曲解されている聖書解釈を盲信しています。正統なイエスの教えはACIMと聖書内のイエスの言葉のみを、祈りと共に学ぶことで降りてくると思います。


 彼女が、非難していたクリスチャンは、子連れで訪問勧誘する団体の人だということが分かりました。このキリスト教会も異端とされているものです。しかし、先に述べたように、異端であってもそれをきっかけに高みに登ることも可能です。


 その反対に、正統とされているキリスト教でも、その総本山では、マネーロンダリングや男児愛好が横行していると噂されています。しかし、その末端ではインドの地で黄金に輝く足跡を残した修道女もいました。


 どんな宗教をきっかけにしても、またきっかけにしなくても、高みに登ることは可能だと思います。ですので、宗教を異にすることを理由にした争いはやめましょう。最終的なゴールは同じはずですから。その時初めて、各宗教の教祖(彼らを教祖に祭り上げたのは、後の弟子達の誤解によってですが)の最終目標であるはずの『宗教のない世界』が誕生することでしょう。


 話が大分脱線しましたが、先ほどの女性の『あたりまえ』の話に戻ります。


 わたしは、恒常的に運動し、体型を維持しています。それに対して『偉いね~』という人がいますが、私は『好きな事をしているだけで偉くはないですよね~』と答えるようにしています。


 『あたりまえのことをしているだけです』と言ってしまったら、『あなたは、あたりまえの事をしていないですね。太っていますから。あたりまえの事すらできないのですか?』と暗に言うことになるからです。


 これは強者の理論です。自分にできるからといって、他の人にその基準を要求しては、厳しいと思います。由羅さんの基準は高いです。よって、万人がその基準で生きられる訳ではないと思います。もちろん、由羅さんが万人に対して要求していないことは承知していますが・・・


 導入と脱線のお話はこれくらいにして、徐々に本題に入っていきます。思いついたままに書いていきますので、まとまらなかったらすいません・・・、現時点でもまとまっていませんが・・・・



 国によって異なる『あたりまえ』



 イスラム教の国では、時間を守りません。『インシャーアッラー』(神が望みたもうならば)と言って『神が望みたもうならば、約束を守る』と言うそうです。約束の時間を何時間遅れても、悪びれず『インシャーアッラー』(神が望まなかったので遅れた)と言い張ります。時間を守ることはイスラムの国では『あたりまえ』ではないのです。


 ラテン系のカトリックの国では、自分にとって良いことがあったときに、神に感謝の祈りを捧げます。彼らにとっては、『信仰心の深い自分に、神のご加護があってあたりまえ』なのかも知れませんが、神はそんな御利益宗教のようなものではありませんし、祈りの長さによって見返りを与えるような民間会社の成果主義のようなものでもありません。


 ラテン系の人がスポーツで競って勝った時に、自分が勝てたのは神のご加護だと言わんばかりに十字を切りますが、相手もカトリックだったりします。『何で神は自分を選んだの?』とは彼らは思わないのです。ちょっと単純です。


 『あたりまえ』は、国・人・宗教等により、様々です。『あたりまえ』とは、その人個人の『思い込み』です。思い込みは、成長を阻害するとともに、双方の意見等に相違が発生した時に、相手を批判することに繋がることもあります。エハン・デラヴィさんのDVDでも、思い込みを捨てよと言っていました。


 最も強い思い込みは、『今日も・明日も、相も変わらず生きている』という事だそうです。生は保証されていません。『死を意識しながら生きろ』とも仰っていました。昔の日本の『武士のこころ』で生きろと仰っていました。


 ガンジーも『明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい』と言っていました。いつでも死ねる覚悟で生きる事が、以前記事に書いた尊厳生に繋がるのだと思います。



 『ごめんなさい』も『あたりまえ』ではない。



 アメリカでは、近年、通称で『アイムソーリー法』というものができました。アメリカは訴訟社会ですので、相手に迷惑をかけても『アイムソーリー』とは言いませんでした。


 もし、『アイムソーリー』と言ってしまうと、自らの非を認めたということになるので、裁判になったとき不利になるのです。ですから、決して『アイムソーリー』とは言わないのです。


 そのため、「すいません」「もうしわけない」「ごめんなさい」と言っても、証拠として採用しない、つまり、裁判において、不利にしないという法律ができました。これが『アイムソーリー法』です。


 悪いことをしたら『ごめんなさい』というのは『あたりまえ』という意見は、アメリカでは通用しませんでした。ですが、アメリカでも「悪いことをしたらごめんなさいと言いましょう!」と法律で決められるレベルまでには成長したのです。


 『ごめんなさい』と言える人は、言えない人より『強い人』だと思います。少なくともアメリカにおいてはそのはずです。なぜなら、『ごめんなさい』と言える人は、「責任をとる」という意思表示をするため、言えない人より、『経済的にも・精神的に強い』ことになるからです。


 一時期、アメリカのトップの人たちが『私に責任がある!私が責任をとる!』と言って、国民から絶大な支持を受けた時がありました。実際には、言うだけで責任はとりませんでしたが・・・


 ですが、アメリカでは『責任をとる』と言うだけでヒーロー扱いされたのです。それだけ、誰もが自ら責任をとろうとはしない国だったのです。


 本来、『悪いことをしたら、ごめんなさいと言いましょう!』などと言うことは、法律で決める内容ではないですが、言えなかった国としては進歩であり、認めてあげるべきです。「そんなことすら法律できめるの!?」と非難することなく、です。


 由羅さんの言われるように、電車の中の優先席等は、本来はない方が良いのはよく分かります。弱者をいたわるのは、ルールで決めるべき内容ではなく、『そうしたいからする』というレベルのものです。ですが、それができない人もいるので、ルール必要だと思います。


 自然に譲り合いができる人から見たら、マナー喚起のシール等は不快なものかも知れませんが、飲んだくれのDV亭主でも・店のあがりを巻き上げる暴力団員でも、そのシールがあったら、嫌々でもそのルールを守るかも知れません。


 そのレベルの人が、嫌々でもルールを守れるようになることは、そのレベルの人においては大いなる進歩です。いずれは、DVや覚醒剤の販売もやめてくれるかもしれません。



 『見殺し』も『あたりまえ』の国



 中国では、道に倒れて死にかけた人を助けずに、そのまま見殺しにするという事件がありました。このような見過ごし事件は多数報道されています。


 理由は、助けたことにより多額の医療費を請求されたり、加害者扱いされたりするケースがあったためです。ですから、『防犯カメラ等の証拠があるなら助ける』というのが、一般の中国人の意見だそうです。


 AED等が、そこかしこに整備されている日本であれば、人助けは『あたりまえ』かも知れませんが、中国では『自分の無実が保証されているなら・経済的負担が請求されないなら』という条件が付きます。人の命を助ける事さえ『あたりまえ』ではない国があるのです。


 元々、中国は日本が手本としていた国です。その国が、ここまで落ちたのです。理由は、共産党の独裁国家になったことが原因です。


 共産主義は、『能力に応じて働き、必要に応じて取る』を中心に生み出されたものです。


 陰謀論では、ロスチャイルドがマルクスに金を渡して「共産主義宣言」を書かせたと言われています。現在のお金の仕組みを作り、戦争を仕掛けながら富を独占してきたロスチャイルド家が、新たな火種を作るために共産主義を生み出したそうです。


(こぼれ話ですが、『ロスチャイルド』は名誉なことに、近代人で唯一、ルドルフ・シュタイナーの著作にその名を刻んだ人です。スピリチュアリストでシュタイナーの名を知らない人はいないと思います。シュタイナー教育という名でなじみのある方もいらっしゃるでしょう。


 わたしは、シュタイナーの著作を10冊程度読みましたが、その著作に名を刻む人は、古代の巨人である精神的な指導者のみ(アストラル体・エーテル体等の階層は含む)です。少なくとも私の知る限りですが。


 その著作群の中で一回だけ、ほとんど唐突に『ロスチャイルド』と名指しされていたのです。もちろん「いい人」という扱いではありませんでした。「なんで???」がその時の率直な感想でしたが、今では納得できます。


 家内にこの話をしたら、『ロスチャイルドも生み出される役割があったんだね~』と脳天気に言っていましたが、『ロスチャイルドは、必要悪として生み出されてしまった。私たちが、お金を信仰の対象としてしまったが故に。』が正確な解釈だと思います。


 私たちが、お金を信仰の対象としていないなら、また、お金の呪縛から解放されているなら、ロスチャイルドも富の集約などは行えなかったことでしょう。彼を現在のロスチャイルドにしてしまったのは、私たちにも責任があると思います。こぼれ話終わり)


 話を元に戻します。別の話では、ユダヤ人でユダヤ教徒の家に生まれた「マルクス」(本人はクリスチャン)が、宗教的・人種的差別により、宗教を嫌い、それを否定する共産主義を生み出したとも言われています。


 共産主義がどのような思惑で生み出されたものかは兎も角、『能力に応じて働き、必要に応じて取る』という考え方は、理想であることは確かです。ですが、これを主義として進めたところに無理があるのです。


 『人に与えることにより、自分の取り分が減る(win-lose)』と考える人たちには、この『能力に応じて働き、必要に応じて取る』という考え方を実践することは不可能です。これを実現できる人は、愛ある人だけでしょう。


 この世のものは与えると減ります。しかし、愛は与えても減りません。愛は一時的に余分に持っている人から、一時的に少なくなっている人に、受け渡されるものだと思います。


 余分に持っていた人が愛を与えたことにより減少するなら、不足分は即座に宇宙から補填されるため、その人の愛の総量は減りません。ただ、補填される愛は、元々持っていたものより「上質」のものになります。


 この法則を利用し、『引き寄せ』や『言霊』等を乱用することを、由羅さんは諌めているのだとおもいますが、説明不足だと思われたため、自分なりの補足を書きました。由羅さん、誤解していたら訂正してください。


 見返りを求めたら、それは『愛』ではありません。取引です。それを承知して、「愛もどき」を与えるとしたら、それは宇宙の法則を悪用しているといっても良いかもしれません。そんな人が多いという点と、そんな人にはならないで!、と由羅さんは言っているのだと思います。


 話は変わりまして、由羅さんは、嫌な上司の例で、「その上司の背景を理解せず、色々な経験をさせてくれてありがとうということは身勝手だ→自分だけが良ければいいという考え方に繋がる」と言っていましたが、これには見解を異にします。


 その上司にどんな理由があろうとも、その全てを部下が思い測ることは不可能です。仮にその上司の生い立ちが不幸であったため、そのような人格になったとしても、それは『その上司が生前の合意でそのような環境を選んで生まれてきたはず』です。


 それは、キリスト教の「罰」や仏教の「カルマ」と似て非なるものであり、『宇宙の成長・上昇のために、その人自らが買って出た役割』だと思います。多くの場合、生前の合意は覚えていませんが、『もがいて生きていけば』生前の合意に合致した生き方ができるのだと思っています。


 その上司の課題はその上司のものであり、その上司が自ら解決すべき問題です。「It's not my business!」であり、冷たいようでも「It's your business!」だと思います。


 生い立ちを理解し、同情してあげても、部下の受け取り方は『ありがとう』以上のものはないと思います。


 私は、鬱病でした。鬱の感情は、鬱病患者でないと分かりません。医師もカウンセラーも『とんちんかん』でした。しかし、鬱病患者がどんなに「かわいそう」だとしても、その世界の中から抜け出すのは、本人の力が不可欠です。回りがどんなに同情・励ましても、本人が自ら立つ意志を持たない限り、無理です。


 同情されすぎると、鬱病患者は『泥沼化』する傾向があります。アメブロで鬱病患者のグルッぽがありましたが、傷の舐め合いをしているだけで、誰もその中から抜け出せないようでした。


 鬱になったのを回りのせいにせず、「It's my business!」(言葉は違います)と覚悟を決めた人だけが、鬱のスパイラルから抜け出していったようでした。


 鬱のスパイラルは、一世代だけのものですが、複数世代に渡る負のスパイラルの代表的なものに『虐待』があると思います。


 虐待をされて育った子どもは、虐待する親になる可能性が高いと言われています。しかし、虐待の問題を解決できるのは、行政でも隣人でもなく、虐待を受けた『その人のみ』だと思います。


 虐待の問題を解決する方法は、虐待の連鎖を断ち切ることと、虐待の事実を『なかったこと』にすることだけだと思います。


 過去は変えられないと思われていますが、現時点においても過去は変えられます。スペクタクルではありませんが、これが個人に成せる『奇跡』なのだと思います。この辺はACIMに詳しいので、読んでください。


 自分の親からされた虐待を「なかった事」にできるのは、「虐待されて育ったその子」だけであり、その子が、自分の子どもを育てるときに、「虐待を繰り替えさず・代わりに愛を注ぐ事だけ」ができたなら、『虐待の経験』も『教育の一環』に昇華することになるのだと思います。


 その時点で、その子の受けた虐待は、過去・現在・未来、どの次元においても、「ただの一度も存在しなかった」ことになるのだと思います。


 虐待は数世代にわたるものかも知れませんが、それより長い最長の負のスパイラルは、『原罪』です。


 キリスト教では、『原罪』などということが、まことしやかに言われています。仮に人間が『罪を犯しました』と言ったとしても、神は『罪』の存在など、決して認めないと思います。人間でさえ、虐待という事実をなかったことにする奇跡を行えるの強さを持っているのにです。まして、その『罪』に対して、神が『罰』を与えるなんてナンセンスです。


 そして、虐待を乗り越えたその子、虐待を『なかった事』にできたその子の気持ちは、全ての環境に対して(親を含む)『ありがとう』になるのだと思います。これは自己欺瞞のレベルで『ありがとう』と言えという意味ではなく、全てを昇華し尽くしたなら、『ありがとう』という感謝以外の念は、起こりえないと思います。


 虐待の連鎖が、どこから始まったかは分かりません。先祖代々続いてきたものかも知れません。上司の精神的な歪みも、何が原因かは分かりません。その連綿と続いてきた全ての環境と気持ちをくみ取る必要はないと思います。負の連鎖を断ち切れば良いだけだと思います。


 中国の話から、元に戻ります。中国は、『見殺し』も『あたりまえ』の国になってしまいましたが、これは対岸の火事ではなく、日本にもこのような状況は押し寄せてきています。それは『TTPの問題』です。


 国民皆保険は、現在の日本においては『あたりまえ』です。しかし、TTPが動きだし、国民皆保険が壊されたなら、助かるか・助からないかは、経済力によることになります。


 あなたの持っているクレジットカードの格付けが低かったら、救急車は『あなたのカードでは返済能力が不足していますので引き返します。』と言うのです。これは、保険が営利企業となっているアメリカでは、実際に起こっていることです。


 チェンソーで指を2本切ったとしたら、『あなたの返済能力では、両方を残すのは無理です。どちらかを選択してください。』と医師から言われるのです。これらについてはマイケルムーア監督の「シッコ」という映画で詳しく描かれていますので、ごらんになってください。


 また、交通事故に遭った人のために救急車を呼んだ人が、事故に遭った人の母親から『なんて事をしてくれたんだ!おかげで、多額の請求書が来たじゃないか!払えるわけがないだろう!』と怒られたそうです。救急車を呼ばなければ、その人は死んだと思われるくらいの事故だったそうです。ですが、今のアメリカではこれが『あたりまえ』なのです。


 TTPにより、テレビCMを乱発する不払い訴訟が国内ダントツの外資系の保険会社が幅をきかせるようになったら、医師も看護士も、保険の裏付けのある患者しか診療しなくなります。例えそれが救急救命を要する急患であってもです。


 また、保険会社は、保険の不払い件数の多さをその保険外交員の能力として評価しています。よって、外交員も会社も、保険金を極力払おうとしません。日本の互助会的なものとは正反対です。


 そして、企業によっては(大企業でした)、社員に秘密で、生命保険を、社員にに掛けています。受取人は、家族ではなく『会社』です。明るみに出たものは、余り多くはないようですが、これは事実であり、アメリカでは善意の弁護士がこのような事件の解明に動いています。マイケルムーア監督の「キャピタリズム」に詳しく描かれています。


 もちろん、この企業の行為は違法ですが、営利企業にとっては『あたりまえ』な事なのかもしれません。


 基本的に全ての企業が、営利企業ですが、『利益のみ』を求める企業と『ありがとう』も求める企業があると思います。



 お客様に『ありがとう』と言ってもらえる企業



 『ありがとう』という言霊を乱発するのは良くないかもしれませんが、そのように言い切ってしまうと、念仏を唱えることで救われると説いた日蓮の想いも否定することに繋がると思います。


 他力だけではいけませんが、自力の道が閉ざされている人に対して、『他力のみでも救われるよ、希望を持って生きて行ってね!』という想いは汲むべきだと思います。


 自力のみを説いたのは道元ですが、彼はただ坐るだけでした。社会に対して行動はしませんでした。布教以外。しかし、彼は『焼甎打著連底氷』(しょうせんだじゃくす、れんていのこおり)と言って坐り続けました。


 悟った自分の想いが、世の苦悩(連底氷)を溶かせると信じていたのです。彼の悟りを、「閉ざされた環境下での悟りに過ぎない」といって馬鹿にする宗派もありますが、しかし、彼の想いも本物だと思います。例え座学であったとしてもです。


 行動も大切ですが、アンカーとなる人においては、気持ちの方が大切だと思います。これについては、後で書きます。ここでは『ありがとう』についてだけ述べます。


 由羅さんが、潜在意識を活用するために『ありがとう』をまだ見ぬお客さんに対して使うのは「いかがなものか」と言っていましたが、わたしは「動機が良いなら問題ない」と思います。


 お金だけが動機の場合は問題あるとおもいますが、『お客様に満足してもらえる商品とサービスを提供したい』という想いで、『満足しているお客様の笑顔』を想像しての、先取りの『ありがとう』は良いことだと思います。


 日本の企業は、顧客満足を第一に成長してきたと思います。終身雇用制度にも問題はありますが、生活が保障されていたため、社員はそこに骨を埋める覚悟で商品開発等を行ってきました。日本の高度成長は、このような精神が生み出したものだと思います。


 しかし、小泉・竹中改革の時に、外資系が入り込み、長期的な成長ではなく、短期的に株主に配当を渡すことが企業に対して求められるようになりました。


 企業は長期的な視点に立った研究開発はやりにくくなり、株主への配当を増やすため、コストを削減するため生産拠点を海外に移すようになりました。その過程で、特許・技術・人材が流出するようになりました。


 棚ぼた的に技術を知り得た国の中には、その技術をあたかも自らが開発したかのように主張し、日本企業に噛みついているところもあります。恩を感じてくれている島もありますが・・・


 配当を求める株主とは、投機家が主であり、宿主を殺しても自分が肥え太る寄生虫のような輩です。世界銀行と投機家が、物を作らず、情報操作とデータ化された金を動かすだけで富の集中を生みだしています。サブプライム・ローン問題もこの一例です。


 彼らは、『win-lose』で世界を捉え、自分さえ勝てればいいという思いで生きています。


 しかし、日本古来の企業理念は『win-win』であったと思います。会社も従業員も顧客も『win』になることを目指していたと思います。その時の気持ちは『ありがとう』だと思います。ですから、まだ見ぬ人に対して『ありがとう』というのも悪いことではないと思います。


 繰り返しになりますが、由羅さんが懸念しているのは、打算ゆえの『ありがとう』だと思います。これについては私も好ましくないと思います。


 また、先取りの「ありがとう」は『これから起きる純白なまでの未来に対する支配(コントロール)である』と仰っていましたが、良い方向にコントロールするのなら問題ないと思います。


 由羅さんも、ジョンレノンの「imagin」の世界をイメージしていると思います。これをイメージすることも未来をコントロールすることになると思います。


 純白ではなく、現状から判断すると破滅の予感さえする不透明な未来を、平和で国境も宗教もない世界へとコントロールすることは、意識的にやるべき事だと思います。



 『ありがとう』が『あたりまえ』であった国の消滅



 尖閣諸島問題や竹島問題で、日本は平和ぼけしていると言われています。韓国の大統領と握手をしたといって日本の総理が非難されています。


 少子化が進み、移民の受け入れを国策として進めるかも知れません。現時点でも、在日○○人が暗躍しているとか、不当に手当を受給しているとか、テレビや報道を操作しているとか、色々言われています。


 日本人は「お人好し」なのでしょう。お人好しな人は、「win-lose」の価値観の世界では、loseの側に回されます。このままで言ったら、日本人は消滅するかも知れないし、隣国の属国になるかも知れません。


 3・11の際、帰宅難民が順序よくタクシーを待つ姿を見て、中国の上の人が「我が国では、100年たっても無理だ」と言いました。中国では、タクシーを順序よく待つことは『あたりまえ』ではありません。


 韓国でも、タクシーは止めたもん勝ちです。車道の中央まで出て行って、男性や金を振りかざすものから止めていきます。弱いものはタクシーに乗れません。


 このような人達と仲良くやっていくのは無理かも知れません。ですが、彼らと争おうということを言いたいのではありません。


 マヤもインカもアステカも残っていません。彼らは優れた文明を持っていましたが、布教と略奪に来た僅かな数のスペイン人に滅ぼされたか・どこかへ移動しました。


 日本人も、どこかへ行ってしまうかも知れません。この次元で生き残るために、争わなければならないくらいなら、肉体から離れた方がいいかもしれません。過去の優れた文明と同じように。


 優生学等に基づき、「劣勢民族をワクチン等により根絶やしにしよう!」としている人もいます。彼らがエネルギーと富をコントロールしています。貧困を根絶できるような技術(フリーエネルギー等)や末期がんさえ完治させることができる医療があると言われています。彼らがそれらを隠蔽してきたと言われています。


 陰謀論と片付けることは簡単ですが、多分陰謀論ではなく事実です。


 ただ、隠された技術等が開示されるのが先か、劣勢民族として黄色人種や黒色人種が根絶やしにされるのが先かは分かりません。しかし、生き残ることを心配するより、霊性を高く保つ事を気にする方が大切だと思います。


 三次元的な天国は来ないかも知れません。五次元的な天国は来るかも知れませんが。


 どちらに転ぶかは、霊性をいかに保つかによると思います。地球においては、クジラ・イルカ・ゾウ族が地球の霊性を保ってくれているという人もいます。真偽は分かりません。


 人類の中にも霊性が高い人はいます。この変容の残された時間で、人類全体の霊性のアベレージを高めることは不可能だと思います。ですが、クジラ・イルカ・ゾウ族だけなく、アンカーとなるべき人達の霊性が高まれば、地球の未来は輝かしいものになると思います。


 その時、『win-lose』で世界を捉え、自分だけが『win』になれれば良いと考えていた人たちが、どこに住まう事になるかは分かりません。


 由羅さんは、その人達をも救いたいという想いから、今回の記事を書かれたのだと思いますが、彼らの行く末は「It's not my business.」であり、「It's your business.」なのだと思います。


 今は過渡期であるため、救える人から救っていく時だと思います。過渡期が過ぎて、地球が安定したら、今の悲惨な状況を引き起こした人たちを救いに行けば良いと思います。


 イエスの使徒は、今、地獄にいると「とある本」に書いてありました。20年位前の本で、スウェーデン・ボルグの教えを漫画にしたのものです。その後、何度もこの本を探しましたが、見つかっていません。似たような漫画はあるのですが。


 なぜ、地獄に行くことになったかも書いてあったのですが、その理由は『イエスの教えを誤って教えたからだ』と書いてありました。しかし、スウェーデン・ボルグの他の著作を読んでもそのような事は書いてありませんでしたので、この漫画を書いた人の解釈ではないかと思っています。


 その理由は、仮に間違えて教えたからと言っても、神もイエスも彼らを裁くことはしないでしょうし、そもそも『罰』として「地獄に送られる」などという考えは、人間が考えたフィクションでしょうから。


 地獄は、『そこが最も心地よいと感じる人が好きで住んでいる場所』が、他の一般的な霊から見たら、地獄に見えるに過ぎないからです。この世でも同じような場所はあると思います。この世でもあの世でも、彼らは、好きでその場所に住んでいるのです。(この世の地獄は「スラム街」等のことを言っているのではなく、マフィアややくざ等が住まう世界のことを言っています。)


 イエスの使徒は、彼らをその『個人霊界(地獄)』から救わんとして、地獄に乗り込んでいったのだと思います。それが、最も合理的な考え方だと思います。


 この変容の過渡期が過ぎた後、改めて、自ら作り出した地獄で苦しむ人達を解放しに行けば良いと思います。今の時点では、地球での先頭集団を導いていくことを優先させるべきだと思います。


 由羅さんよろしくお願いします。自分も頑張りますが・・・、何もできないかも知れませんが・・・・。



 2012/09/07(金)


 仲間意識の罠について述べたいと思います。



 相手をやり玉に上げて、自分たちに仲間意識を醸成するのは、間違いであると思います。しかし、このような例が先見されています。


 これは、尖閣諸島や竹島を始めとした国家間の問題でもそうですが、いじめを中心とした個人間の問題でも認められます。(いじめは個人間の問題だけではないことは承知しております。)


 会社の中においても、派閥や学閥、同窓会などといって仲間意識を醸成しますが、余り好ましくないと思います。


 ネット上のつながりでも同じ事が言えると思います。


 多くの人は、『同じ人を敵と思う自分たちは仲間である』というような安易な同盟を結びたがります。


 趣味・嗜好においても、同好の人の多くは群れたがりますが、群れる前に自己を確立すべきだと思います。


 私は色々な趣味を持っていますので、その中で自分たちの仲間になるよう促されることがありました。


 しかし、同じ趣味で固まると、同じ目的も共有したがる傾向があると思い、今は距離を置いています。


 例えばトライアスロンを例にすると、『タイムの向上』という目標と『同好会の発展』に寄与するように、緩く要求されます。


 競技を続ける過程でタイムが向上すれば良いですが、自分にとってはそれが目標ではありません。また、トライアスロンが発展・衰退するかは、大衆がトライアスロンを好むか・好まざるかによるので、関心の外にあります。


 あるトライアスリートに次のように言われたこともあります。『トライアスリートがゴルフなんかすると堕落するよ!』と。わたしは、ゴルフも趣味ですので、この言葉には賛同できません。


 ある趣味で固まると、それと対極にある趣味をバカにする傾向があると思います。例えば、上記の『ストイック』の上位にランクされるであろうトライアスロンと、ラグジュアリーの上位に位置されるであろう『ゴルフ』は、共存しにくいのかもしれません。


 また、スキューバダイビングも私の趣味の一つですが、スキューバも熱狂的な愛好者が多いので、地元のツアーには参加しないようになりました。ツアーバスの中での話題が、ダイビングの話だけになるのと、インストラクターを神格化する雰囲気が嫌だったので・・・


 私は、どこにも属したくないのだと思います。それは、どこかに属することで、誰かとは繋がりにくくなるような気がするからです。


 また、安易に人を崇拝するのも避けるようにしています。それは、ある人を神格化してしまうと、その人の主義主張を無分別で受け入れるようになり、結果として依存症になってしまうと思うからです。


 これはスピリチュアルを信奉する人に多い傾向だと思います。本当のスピリチュアルリーダーなら、自分の意見を相手に押しつけたりはしないはずですが、意見を押しつける偽物が横行しているような気がします。


 私は、共通項を持つ人達で仲間意識を醸成するより、意見を異にする人たちと、お互いを賛美しあう関係でありたいと思います。違いは認めるが、非難はしないというスタンスです。


 世界平和を求める人の中にも様々な段階があると思います。自分の幸せを求める人、自分だけの幸せを求める人、回りの幸せも求める人、回りの幸せを優先させる人、自分を優先する人を非難する世界平和を求める人・・・・等々。


 人の成長レベルは様々なので、相手の意見がどのように思えようとも非難すべきではないでしょう。相手がエゴの固まりとして、『自分だけが良い!』という生き方をしていてもです。


 もちろん、そのような生き方は、回りにとって迷惑かもしれません。そもそもその人自身の幸せにもつながらないでしょうが、本人がそれに気がつくまで改まることはないでしょう。声がけは必要ですが、あるレベル以上は自己責任だと思います。


 自分が溺れてしまうまで、相手を助けるべきではありません。まずはあなたが向こう岸に着く方が大切です。あなたが先例となれば、後を追う人も出てくるでしょうし、岸に着いたあなたは、安定した場所から救いの手を差し伸べることができることでしょう。


 どんなに心優しくても、二次災害は防がなければなりません。溺れている人を見ても、あなたが手を貸して泳ぎ切る泳力がないのであれば、少しの間待っていてもらいましょう。自ら泳げるようになることを祈りながら・・・



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