2012年12月
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2012/12/14(金)
neo俳句:『そろそろの 所作に宿るは 今を生く』
neo俳句です。
『今を生きろ』というのは、精神世界のマスターが異口同音に言ってきた言葉です。
先日、現代のスピリチュアル・マスターの一人である「エックハルト・トール」さんの『illusion of time』というDVDを見ました。邦訳は「幻想としての時間」だと思います。そのDVDを見て読んだのが上の句です。
多くの人は「忙しく」動いています。「どこか」を求めて動いています。その「どこか」の答えは、『今より重要と思える次の瞬間』だとエックハルト・トールさんはDVDの中で言っています。
これは本当だと思います。多くの人は未来の何かになるために・未来に何かを手に入れるために、行動していますが、未来は存在しません。過去も同様です。
私たちが感じられるのは『今』だけです。ですが、多くの人は『今』を軽視して『未来のある地点』に向けて「忙しく」行動しています。
そして、「忙しい」という字は、「心を亡くす」と書きます。すなわち、忙しいと言っている人は、今から離れ、心を失っているのだと思います。
今を生きるには、それぞれの一挙動に注意を払うことが有効だと思います。それが、「そろそろ」の意味です。そろそろと動くと今を感じられると思います。嘘だと思ってやってみて下さい。
今を感じられることが、今を生きることの出発点です。今を生きるために、まずは『今にある』ことを感じられるようにしていきましょう。
2012/12/07(金)
neo俳句『厳愛を 脱ぎ捨てていく 新世界』
neo俳句です。意味は、多分、分かってもらえないでしょう。
愛の中でも色々な種類があります。執着も歪んだ愛の形でしょう。野生動物の子どもへの愛は、捕食者への攻撃性へと変化しますが、これも愛です。
また、フィリア・エロス・アガペーという分類もあります。
同じように、厳愛・慈愛という愛の種類もあります。
厳愛が意味をなすときは、相手がそれを受け入れられる強さがあるときだけです。その力のない人に対しては、慈愛で接するべきです。
ですが、これから訪れようとしている新世界は、慈愛さえいらなくなる世界だと思います。
必要なのは、ただの『愛』だと思います。「純粋な愛」です。「浄化された愛」と言い換えても良いかもしれません。
私は、厳愛派でしたが、今はその厳しさは消えかけています。私はそれを脱ぎ捨てていく必要があるのだと思います。その気持ちを読んだのが上の句です。
新世界に行きたくないという人も沢山いるでしょうが、一人でも多くの人と一緒に新世界に移行したいと思います。その時の行動指針になるのが『慈愛』だと思います。
2012/12/06(木)
neo短歌『誇りしは 誇らぬ心 ただ一つ しかし誇ればそれも エゴからのこと』
『○○を誇りに思う』
この○○に何を入れるかで、その人の価値観や精神性の高さを測ることが出来ると思います。
低いところから上げてみますと「お金、車、家、学歴、持ち物」などがあると思います。
もう少し上だと「職業」「親」「子ども」などかなと思います。
更に上だと・・・、「優しい心」「愛情深いところ」「信念」などになると思うのですが、ここで「誇り」を持つ主体は『自分』です。
ですが、「誇り」と「うぬぼれ」の境界はどこになるでしょうか?人が正当に誇って良いものってなんでしょうか?
その考えを歌にしたのが冒頭のものです。
誇るべきは、誇らぬ心ただ一つだけのように思います。しかし、それすら誇ってしまったのなら、それはエゴなのでしょう。
前回のブログで書いたように、真の世界が到来したなら、赦すことは出来なくなります。それと同じように、真の世界が到来したなら、『誇ること』も出来なくなるのだと思います。
『誇り』に置き代えられるのは、『尊重』だと思います。真の世界とは、自分も相手もありのままで尊重される世界です。全ての人が唯一無二であるため、誇るべき相手も誇る対象ありません。
今は、そんな世界に移行している最中だと思います。そんな状況であるため、否定したい人や内容があるかも知れませんが、それもそれとして尊重する訓練を始めた方がよいと思います。