2011年12月

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 2011/12/27(火)


 A氏「忙しいですか?」、私「暇です。」、A氏「(爆笑)」という会話をしました。



 A氏「忙しいですか?」、私「暇です。」、A氏「(爆笑)」という会話をしました。


 A氏とは、10年ぶりくらいに会いました。その人との会話が冒頭の内容です。私の職業は、サラリーマンなので「忙しい」必要はありません。成果を上げようが上げまいが、給料は変わりません。


 もちろん、『楽してサボろう』という意味ではなく、『創造的な仕事をするけど、忙しいのは嫌なので、定時で帰るよ』という意味で『暇』なのです。同僚の中には、「意味のないことを・一生懸命やって・残業&休日出勤」をしている人もいますが、「もっと上手く時間をつかったら?」と思います。


 日本人は兎角一生懸命やることを『美徳』と見なす国民だと思います。でも、これは誤っています。無駄な事を一生懸命やること程、無駄な事はありません。一生懸命やることより大切なのは、『成果を出すこと』です。


 しかし、成果を出したとしても、あなたがその結果に対して『満足できない』のであれば、それも意味ないことです。何かをやり遂げて、あなたが達成感に浸れるのであれば、やった意味はあるのです。その反対に、周りの人が評価してくれたとしても、あなた自身がその結果を評価できないのであれば、まだ事の途中(失敗ではなく)なのです。


 挑戦し続けている限り、失敗は失敗ではなく、失敗の選択肢を一つ消去したに過ぎません。


 反対に、一つの成功を達成できたのであれば、残りの失敗の選択肢を探る必要はありません。その成功のみで勝負をすれば良いのです。それに飽きたら、他の成功の選択肢を選択すれば良いだけです。


 『1%のひらめきがあれば、残りの99%の無駄な努力はいらない』と言ったのはエジソンですが、これが本当だと思います。しかし、日本人の多くが99%の無駄な努力をすることを『評価してくれ!』と言いたがります。『勘弁してよっ』て思います。


 では、もっとも大切な1%のひらめきを手にするにはどうすればよいのでしょうか?その前に、私たちが、手にすべきひらめきとは何なのでしょうか?


 これについては、人それぞれの発展段階によって様々でしょう。しかし、その道しるべとなるのは『感情』です。あなたが『気持ちの良い』ことをし続けている限り、良い方向に向かっていると言えると思います。そして行き着く先は、それぞれなのでしょう。



 2011/12/20(火)


 『最後の忠臣蔵』を見ました。忠義の心は表されていますが・・・



 『最後の忠臣蔵』を見ました。この映画を見るきっかけは、J・C・ガブリエル(旧エハン・デラヴィ)さんが、「是非見てください」と言っていましたので、見ました。この他に、来年3月にDVDがリリースされる「Life of Tree」も良いとおっしゃっていました。


 最後の忠臣蔵は、ハリウッドで公開された初めての「全編日本語」の作品だそうです。ハリウッドものですが、外国人向けに作られたものではなく、日本人向けに作られたもののように感じました。


 目が腫れるほど、泣いてしまいましたが、感動というより『切ない』といった思いで泣いてしまいました。『切ない』映画で気に入っているのは、ミッキー・ローク主演の『レスラー』ですが、最後の忠臣蔵は『切ない』だけでなく『それっ、間違っているんじゃないの?』という思いがとても強くありました。


 『武士道』と『忠義の心』は、とても良く表されていますが、人間としての尊厳や気持ちが軽んじられていると思いました。(注:このあとネタバレになるため、映画を見たい方は、これ以上読まないでください。)


 主人公は、忠義の心を全うし、最後に四十六士(47ではなく46だと映画ではなっています。)の後を追い、切腹をします。元はと言えば、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)の幼さが招いた一連の悲劇です。美談でも何でもありません。『清濁併せ飲む』強さがリーダーには不可欠だと思います。それがなかった内匠頭は幼いだけだったと思います。


 また、その後討ち入りをした大石内蔵助はある面、優れたリーダーでありマネージャーだったと思いますが、「討ち入りの判断は誤りであった」と思います。忠臣蔵で描かれる武士道は誤った武士道だと思います。


 ヒクソン・グレイシーさんは、グレイシー柔術の第一人者であり、武士道を重んじていますが、この『最後の忠臣蔵』で描かれているような武士道は否定されると思います。


 「武士道とは死ぬことと見つけたり」が武士道の神髄のように誤解されているため、このような自決賛美のような物語がもてはやされるのでしょうが、最後まで『生ききる』のが人間の責務だと思います。


 私は、極真空手と柔術を学んでいます。それは、①「刀を抜かない精神力を身につけるため」と②「幻想である肉体を守るという行為から見える物を模索するため」からです。


 ①については、「武士は刀を抜かない精神力を身につけるために稽古をする」ということを本で読みました。それに感銘を受け、武道を学んでみようと思ったのです。


 ②については、シュタイナーの教えからです。私たちのような精神主義者の中には、肉体や現実世界を否定する人がいます。もちろん、精神と肉体どちらが主体?と聞かれたなら、精神が主体だと答えます。しかし、肉体を軽んじて良いという事ではありません。同じように、日常生活を否定してもいけません。


 シュタイナーが「超感覚世界と探求しようとするものは、日々の仕事や生活を大切にせよ」ということをおっしゃっていました。そのことを実践したいと思います。そのために、私は、精神探求と同様に肉体錬磨を求めます。


 肉体錬磨として、トライアスロンと格闘技とウエイトトレーニングをやっています。この私の側面を見る人は、脳みそも筋肉でできてるんだろうね?と思うかもしれません。しかし、私のメインは意識です。肉体を脱ぎ捨てた後も存在し続ける意識に多くの経験を刻み込み、かつ、数多くの創造を成すために、肉体と脳を道具として、大切にかつ大胆に、活用しています。


 私たちが、この束縛の多い時空間を選んだのは、多くの制限の中でこそ発揮できる創造性を発揮する為だと思います。私たちは、創造主の創造性を付加された存在だと思います。それですので、この制限の多い世界で無限の創造性を発揮しましょう。





 2011/12/19(月)


 まず、行動するのではなく、どう感じたいかを明らかにするべきだそうです。今読んでいる「引き寄せの法則」に書かれている内容です。



 まず、行動するのではなく、どう感じたいかを明らかにするべきだそうです。今読んでいる「引き寄せの法則」に書かれている内容です。


 現代人の中には、スケジュールが手帳に一杯書かれていないと不安になる人がいるそうです。効率化やマネージメントに傾倒している人に多いと思います。しかし、それは「あやまりである」とこの本では言っています。


 例えば、「もし、~しなければ」というような欠乏感から行動を起こすと、欠乏感が実体化されるそうです。例えば、「○○を食べなければ、病気になる」と思うと、病気にフォーカスするため、病気を引き寄せるそうです。


 何となく、納得しますが、しない方もいらっしゃると思います。


 「嫌な仕事だけど、仕事を頑張って、お金を儲けて、幸せになる」というような考え方をする場合、決して幸せにはなれないという事になります。


 まず、嫌々仕事に行くという事で、「嫌々」を益々引き寄せる事になります。また、仕事を頑張ると「自分の時間がない」というような「欠乏感」が増長されます。その欠乏感を「一時的」に回避するため、「気分転換」等にお金を使います。そのように努力してお金を残しても、ブランドもの位にしかお金の使い道がありません。特に「何のため」という目的を持たずにお金を求めたからです。


 過日の新聞に「独居女性の貧困化が深刻である」という記事を見ました。キャリアウーマンなどという言葉に踊らされた女性が、上の様なサイクルで「欠乏感」を『具現化』したのだと思います。


 「豊かである」と感じてから「行動を起こす」べきであり、その豊かさの気持ちが具現化されて「お金」や「物」になるのだと思います。それらの物質を求めなければ、無形の形の『豊かさ』が心にもたらされると思うのです。


 『肯定的であろうと、否定的であろうと、全ての現実はあなたが引き起こしたもの』だそうです。不幸な環境にいる人は、『そんな事はない!』と言うだろうし、信仰者は『良いことは神の御恵みであり、悪いことは私たちの罪ゆえ』と思うのでしょうが、これは間違いです。


 あなたの現実は、あなたが全て行き起こしたものなのです。全責任は自分にあるのです。闇の支配者・政治家・官僚・上司・同僚・家族等々が悪い訳ではありません。


 昨日、加速膨張する宇宙の話をテレビで見ました。見られた方はいらっしゃいますか?


 『これはさすがに関係ないでしょ?』と言われるでしょうが、そもそも宇宙の真理に興味のない人が、この番組を見るという機会を得ることはないでしょう。また、宇宙を膨張させているエネルギーが自分と関わりがあるとは露にも思わないでしょう。(番組では、そんなことは言っていませんが。)


 宇宙を膨張させているエネルギーと私たちの『内なる存在』は同じものからなっていると思います。そう思える人のエネルギーが宇宙を膨張させているのだと思います。


 宇宙を膨張させているエネルギーは、地球上の存在だけではなく、この宇宙全体(見えない部分も含めて)に存在している『意識』から発せられていると思います。


 E=mc2で表されるように、物質とエネルギーは同じ物です。元々、エネルギー体として存在している『意識体』もあるでしょうが、私たちは物質形態を伴った『意識体』です。その価値は、とても高いのだと思います。ましてや、この変革の時に『物質』として存在できているのです。ついてるねー。


 このように考えると、『ポジティブ』に考えやすくなると思いませんか?私は、ポジティブになってきました。もっと良いことが具現化されるのでしょうねー。



 2011/12/16(金)


 「引き寄せの法則で富や健康を引き寄せられます」を誤解していました。



 「引き寄せの法則で富や健康を引き寄せられます」を誤解していました。


 今、「引き寄せの法則の本質」という本を読んでいます。エイブラハムとチャネリングするエスタ-とその夫、ジェリーによって編纂されたものです。


 以前「ザ・シークレット」というDVDを見ました。最初の方は、意外と面白かったのですが、途中から「成功哲学」のようになってしまい、最後は辟易してしまいました。


 「引き寄せの法則」は、そのDVDの中でも取り上げられていましたので、「なんか御利益宗教的な感じ」と思って、引き寄せの著作に関して距離を置いていました。


 しかし、スピリチュアルのYoutubeを見る中で、エイブラハムのチャネラー、エスタ-・ヒックスの映像に出会いました。語られている内容は、「本物」という感じでした。それは、「バシャール」や「神との対話」から感じたものと同じ波動です。


 ですが、ヒックス夫妻の著作を検索すると「お金」「健康」等々、一般人が求めるものが列挙されています。「いやぁ、そういうものじゃないものを探しているんだけど・・・」と思い、購入をためらっていました。


 しかし、先日、ヒックス夫妻の「引き寄せの法則のDVD」を見ました。それを見ていく内に「この存在のもっと深いメッセージを聞きたい」と感じ、本を買いました。


 本を読み進めるうちに、当初感じていた疑念は「誤解」であったことがわかりました。


 わたしは大金を求めていませんが、欲しいものを何でも手に入れられるお金は持っていますし、欲しいものは何でも買っています。


 それですので、欲しいものを買うのに必要なお金はいつも手元にあるということになります。これは豊かな状態だと思います。


 それを手入れると別のものが欲しくなります。この別のものが欲しくなるという願望が「餓鬼的・煩悩的」だと思い、引き寄せを敬遠していたのですが、物に囚われているのではなく、成長を求めているのだと言うのがわかりました。そのために「誤解」です。


 お金がなくなるかなぁと思うと、またお金が入ってきます。何となく欲しいものが周りに増えています。これがここのところずっと続いています。これが引き寄せなんだと思います。


 私は、今年、マイホームを手に入れました。一戸建てを土地から購入しました。ハウスメーカーも完璧なハウスメーカーと出会うことができました。当初の予算では、決して手の出るハウスメーカーではなかったのですが、何となくお金が工面できました。


 土地も、大草原の小さな家のように他の家と離れているのですが、住宅街です。娘の学校も近くですし、スーパーも近いです。


 言いたいのは、「良い方にどんどん話が転がっていった」という事です。全て自分の創造が現実化されていったのです。引き寄せの法則で描かれていた内容も、こんな感じだと思います。


 家を手に入れるときに、「家を手に入れたい!」と強く思ったことは一度もありません。「中古物件をとりあえず見に行こう」から始まり、建て売り→モデルハウス→求める住環境の明確化→ハウスメーカーの精査→土地の精査→デザイン検討→施行→完成→引っ越し、という風に「何となく、少しずつ、ギャップを埋めていく作業」を繰り返すことにより、家が手に入ったのです。途中で、引っ越し用に車も買い換えました。


 人生の中で、大きな出費は、家と車と教育費と言われていますが、このうち2つを短期間に手に入れました。特に努力はしていません。やりたいことはやりましたが。家の監督やデザイン等々。


 私は、今、幸せです。それですので、幸せが具現化されているのだと思います。これが引き寄せなのかなと思います。



 2011/12/14(水)


 「まだまだだ」と思うことは大切ですが、何と比べて「まだまだ」なのかが大切だと思います。



 「まだまだだ」と思うことは大切ですが、何と比べて「まだまだ」なのかが大切だと思います。


 言っている意味は、誰かと比べて、まだまだというのは、有効な考え方ではないと思うからです。そうではなく、自分の理想と比べて、まだまだと思う事が大切だと思うのです。


 「同じ事じゃないの?」と思われる方が多いと思いますが、この2つは大きく異なります。もちろん、同じ場合もありますが。


 同じ場合は、「あなたの目標=誰か」となった時、両者は等しくなりますが、このような目標設定は間違っています。


 あなたは、紛れもなく独立した個人であり、誰かのコピーになる必要もありませんし、なることもできません。


 わたしは、ゴルフが好きです。「誰々のようなスイングになりたい」とは思いますが、「誰々に比べてまだまだ」とは思いません。なぜなら、ゴルフの目的は「楽しむ事」であり、スコアを縮めることではありません。よって、わたしが楽しむ上で、「誰それのようなスイングや誰それになること」は特に必要なことではないのです。


 私は、イエスを尊敬していますので、イエス様のようになりたいと思います。しかし、「イエス様に比べてまだまだ」とは思いません。この世的な見方からしても、イエス様のようになれるわけがありません。ゴルフで言えば、私がタイガーウッズのようになると言っているのこと同じ事になります。これらが不可能なことは、誰の目から見ても明らかです。


 しかし、人生の目的は、イエス様のコピーになることでも、タイガーウッズのコピーになることでもありません。あなたの成すべき事は、イエス様やタイガーウッズにあこがれ、あなたの目標を設定し、人生を創造して行くことだと思います。


 そこで設定した目標に比べて「まだまだ」と思う事は大切ですが、絶望を感じるほどの目標を立てるべきではありません。


 あまりにも目標を遠くに立ててしまうと、やる前からあきらめてしまいます。それですので、できる範囲で最高の目標とすべきです。尺度としては、その目標を達成したときのワクワク感を感じられる位のものを目標に立てるべきです。ワクワク感が感じられるということは、実現の可能性を「内なる自分」が感じられている証しだと思うからです。


 スポーツ心理学でも、優勝台に立ったときの自分をイメージするように、とよく言われます。何の疑いもなく信じられたなら、実現の可能性は高くなるのだと思います。


 これは祈りとは違います。熱心に祈ったから願いが通じた、というようなことを言う信仰者がいますが、神がいるとしたらそんな成果主義のようなことをするはずがありません。


 宇宙は、ビュッフェ形式の食堂のようなものだと思います。「父はあなたが求める前から、必要なものを既に与えられている」とイエス様は言われました。よって、宇宙食堂には、神が既に、あなたの好みにあったものを、全て並べてくれているのだと思います。もちろん、体に悪い物もあるでしょう。スナック菓子などは、あなたの好みに合うでしょうが、体には良くありません。しかし、あなたの体に悪くても、それが食べたいというのであれば、神はそれを与えてくれるのでしょう。


 ネガティブ思考は、スナック菓子や生活習慣病を引き起こしやすい食物のようなものだと思います。それを食すのは心地よいが、あとで痛い目に遭うという点で似通っています。


 生活習慣病や肺がんになった人の中に、「何で俺がこんな目に・・・。神を恨む!」というようなことを言う人もいますが、「だってあなたはタバコを吸っていたし、肉ばっかり食べていたでしょ?運動もしないし。」って言われると思います。ネガティブ思考も同じように・・・


 「何で俺がこんな目に・・・。神を恨む!」


 「だってあなた悪いことばっかり考えていたでしょ、それだから悪いことが引き寄せられたのよ。あなたがそれを選んだんじゃないの?」


 と言われるでしょう。それですので、ポジティブ思考で生き、達成しやす目標を立て、幸せを感じながらそれを創造していくのが良いと思います。



 2011/12/09(金)


 怒るのは良いそうです、抑うつよりは・・・



 怒るのは良いそうです、抑うつよりは・・・


 今、「エイブラハム」のDVDを見ています。エイブラハムとは、エスタ-・ヒックスがチャネリングする存在です。教えてくれる内容は、引き寄せの法則です。


 そのDVDの中で、最悪の精神状態は「鬱」だと言っていました。鬱の波動は悪い物を磁石のように引き寄せ、ますます悪くなるそうです。これは自ら体験があるので頷けます。


 それから抜け出すために、「怒りをあらわにする」のは良いことだそうです。


 自分は、高校生の時に「ハードロック・ヘヴィメタル」というものにはまりました。理由は、「自分も生きていて良いんだ!俺が悪いんじゃない!」と思えたからです。死にたくなったとき、ロックを聴いて気分を高揚させました。このやり方は、悪くはないそうです。


 ただ、怒りぱなしではいけないのだとも思います。自分を責める気持ちなどから解放されたら、その怒りを手放すべきです。というより、怒りを感じていた次元より、上に登れば、怒りは静まります。


 無条件の愛を叫ぶ人が怒ったとしたら、それは「矛盾」になります。無条件の愛は、怒らないはずです。


 「でも、イエス様も怒ったでしょ?」と言われるでしょうが、イエス様は私たちに波動を合わせ、怒ってくれたのだと思います。イエスは無条件の愛の基準だけで生きる事もできたでしょうが、私たちに気づきを促すために、あえて波動のレベルを落としてくれたのだと思います。


 それですので、意識の高い人が、ある人達を覚醒させるために、怒りを爆発させることは、必要な事なのだと思います。先日、篠崎由羅様が無責任で誤った情報を垂れ流しにするマスコミについて怒りをぶちまけていました。しかし、目覚め間近にいる人には、彼女の怒りによる「啓発」は必要なことだったのでしょう。


 私も、職場で怒りを感じていますが、それをストレートに解放すると問題が生じますので、「提案・論文」という形で怒りをぶちまけています。


 人によっては、「そんなことをすると波風が立つからやめた方が・・・」というような事を言う人もいますが、「狭所低所」にしか立てない人達には、「反駁の余地さえ与えない論理的な文章で詰め将棋のようにコーナーポストに追い詰める」必要があると思います。実際それをしています。


 「あんたバカですね!?」


 と言いたいところをグッとこらえて、毒殺されたソクラテスのように相手をいやらしく責めたいと思います。ソクラテスは相手の論理を活用しながら、相手の矛盾点を指摘していたため、「不愉快なやつ」と思われソフィストに殺されたのです。わたしもソクラテスのようにありたいと思います。


 わたしの上の上の、そのまた上の上司は、「そもそも論を言うと・・・」という枕詞を良く使います。「そもそも論ですか・・・そもそも論します?あんた負けますよ!」と言っていつも上司同士の会議に殴り込んでやりたいと思っているのですが、なかなかそんな機会は訪れません。


 その上司は「おらぁ、○○だと思うんだ」とか「俺の感覚からすると・・・」という枕詞もよく使います。この発言に対しても、「あんたがそう思うのは勝手だけど、それの論理的合理性は何処にあるの?あんたが間違っているんじゃないの?そもそも、来春退職の人が自分のことを公の席で『俺』呼ばわりしないでくれる?」と言い返してやりたいのですが、その機会もありません。


 それですので、提案・論文を書いています。論理的に攻められ、しっぽを出したらトコトンまで追い込みを掛けてやろうと思います。それが全体の福祉に寄与できることだと思っておりますので。立っても寝ても戦える○○員を目指します。



 2011/12/07(水)


 スピリチュアリストや覚醒者と思っている人に一言



 スピリチュアリストや覚醒者(洗脳から目覚めている人という意味です)と思っている人に一言、言っておきたいことがございます。もちろん、自分を棚に上げるつもりはございません。自戒の念を込めて記事にしたいと思います。


 まず、自分が「スピリチュアリスト」だと思っている方、挙手をお願いします・・・。該当者は、以下のような単語を、2つ以上をご存じの方です。


 『アセンション、バシャール、エイブラハム・ヒックス、エハン・デラヴィ、キーシャ・クラウザー、エックハルト・トール、スウェーデン・ボルグ、ルドルフ・シュタイナー・・・等々』


 次に、「覚醒者」だと思っている方、挙手をお願いします・・・。該当者は以下の内容のうち、2つ以上の真相をご存じの方です。


●9・11はアルカイダの犯行?
●日航123便の墜落の原因は?
●お金の仕組みは誰が作った?
●カダフィーはなぜ殺された?
●政界を動かしている宗教は?
●3・11の地震の原因は?
●フリーエネルギーって?
●水だけで走る車って?
●常温核融合って?
●ブッシュと・・・
●・・・


 両方を2つ以上ご存じの方、『お疲れ様』です。


 多くを知っている方は、生きにくいかも知れません。しかし、その方は『おごることなく・謙虚に』周りを導く人になってください(自戒の念を含め)


 神秘主義者であったルドルフ・シュタイナーは、その著作の中『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の中で次のように言っていました。


 「超感覚世界を探求するものは、実生活をおろそかにしがちになる。しかし、そのようになってはいけない。日々の仕事をそつなくこなし、家庭をかえりみろ!」(内容のみあっています)


 「スピリチュアル」や「陰謀論」に傾倒すると「現実逃避」的になる方がいます。また、『自分は他の人とはちょっと違うんだよね』的な優越感に浸る人がいます。シュタイナーに言わせると「あんたっ間違っているよ!」ということだそうです。(自責の念を込め)


 物を知っていることが大切なのではありません。物を持っていることが大切なわけでもありません。


 「スピリチュアリスト」や「覚醒者」と呼ばれる人たちの中に、これらの人達を蔑視する人達がいます。ですが、それでは、「スピリチュアリストを名乗っているけど『スピリチュアル』から遠く離れた人」になってしまうし、「『自分は覚醒者(物をよく知っている人)だ』という洗脳を新たに受けた人」になってしまいます(自戒の念を込め)。


 スピリチュアルを求める動機は、「平安」だと思います。同様に、覚醒者(洗脳を解かれた人)を目指すのは、「平和」だと思います。


 スピリチュアリストが、他人を差別してはいけないと思います。覚醒者が目覚めてない人を差別してはいけないと思います。


 スピリチュアリストと覚醒者は共に、地球の平安を求めて光を周りに振り撒くべきだと思います。そのような者になりたいと思います。





 2011/12/05(月)


 「われ思う故にわれあり」って間違えなんですよ、ご存じでした?



 「われ思う故にわれあり」って間違えなんですよ、ご存じでした?


 これは、デカルトの言った言葉で、多くの人がご存じかと思います。私は高校生の倫社の授業で学びました。


 これは、一見正しいように見えますが、これは誤りです。この誤りに気付いた人は、300年後のサルトルです。


 サルトルが明らかにしたのは、前半の「われ思う(疑っている自分)」と、後半の「故にわれあり」と言っている「われ」とは「別の意識だ」ということです。


 デカルトが明らかにしたのは、「エゴの存在」だとエックハルト・トールさんが言っています。「疑っている自分」とは「エゴ」なのだと。そして、それを認識したのが、「真の自分である」と言っています。


 「プロパティ」って言葉はご存知でしょうか?コンピュータが普及したため、ご存知の方も多いでしょうが、その英語の意味は「特性・属性」です。


 わたしは、個人の「プロパティ」とは「エゴ」なのではないかな?と思っています。


 良い例が、「役職・肩書き」です。多くの人は、他人を「役職・肩書き」で判断します。また、多くの「役職・肩書き」を求めます。「学歴」もこれの一例でしょうし、「○○士の資格」というのも、それに含まれると思います。


 これらを求めてもいいですが、それに依存してしまったらいけないと思います。肩書きとは、あなたにとりつく「寄生虫」のようなものだと思います。寄生虫が宿主より強くなっては、両方とも死んでしまいます。


 エゴとは本来のあなたにとりつく寄生虫だと思います。しかし、あなたはその寄生虫に取りつかれていることを認識していないかも知れません。


 先ほどの「役職・肩書き」が「寄生虫」であるなら、宿主であるところの「あなた」とはどのような存在なのでしょう?


 本来のあなたとは「I AM」という存在だと思います。あなたであるということ以外、何も付加されていない状態です。


 だからと言って、存在していない、という意味ではありません。確固とした存在ではありますが、「無色透明」のような存在です。


 花を見て、「ただ美しい」と感じたり、動物をいだいて、「かわいい」と感じたり、太陽の光を浴びて、「暖かい」と感じたりするだけの存在です。それが、あなたの核となる存在だと思います。


 「そんなんじゃ、だた生きてるだけじゃない!なにも成し遂げられないよ!生まれてきた意味がない!」


 という非難が聞こえてきそうですが、人生に本来意味などないとは考えられませんか?「やるべきことなど何もない」ということを悟った後に、「やりたいことをする」という意味での「人生の意味」はあると思いますが、多くの人は「やるべきことを成す」とこが「人生の目的」と考えがちです。


 誰もが、イエスの基準になった時、人類として「なすべきこと」はあるでしょうか?「人を愛する」ということさえ、「比較対象物」が存在しないため、表現できないかもしれません。


 その状況において、「やりたいこと」をやるべきだと思います。やるべき時は、将来の「いつか」ではなく、「今」です。それをやるためには、まず「I AM」という状態を日々感じられるようになる必要があると思います。


 静寂の中で、「ただある」を感じられる時間を持つ必要があると思います。


 やり方は、人により様々だと思いますが、エックハルト・トールさんは「意識して呼吸をするように」と言っていました。呼吸にのみ集中した時間を持つのだそうです。どんな自己啓発セミナーより効果があると言っていました。


 2011/12/02(金)


 自殺はいけないです。人を非難するのも、「生産的でないなら」良くないと思います。



 自殺はいけないです。人を非難するのも、「生産的でないなら」良くないと思います。


 敬愛する篠崎由羅さんのブログを見て感じたことを記事にしてみます。


 「マオリッツオ・カヴァーロさんというクラリオン星人のコンタクティ」に対する「非難」とその発言に対する「責任」を、とあるwebが問うていたそうです。


 それに対する篠崎さんのお考えが以下に記事になっています。この記事を読まれる方は、こちらの元記事を読まれてから、本文をお読み頂くとわかり易いかと思います。


 篠崎さんの記事


 人の意見を「非難」するのは簡単です。特に「上げ足取り」的な非難はやりがちです(自責の念を込め)。発展的な議論は大切ですが、「上げ足取りの非難」はすべきではありません。


 篠崎さんが「神との対話」の例を取り上げていましたが、この例が究極的な「真」を表していると思います。すなわち「全体の幸福に寄与できる話であるなら、その発信元が『神』であろうが『誰』であろうが、関係ない」と思います。


 「全体の幸福」に関する「総意」を作り上げる過程では「議論」になり、時には「非難的」な発言も起こるかも知れませんが、それは「上げ足取り」ではありません。それですので、「議論」の後には「合意が形成」されると思います。


 ただ、「全体の幸福に関する合意」というのは「必要ない」と思います。どういう意味かについて以下に書いて見ます。


 以前は、「政治や宗教がちゃんとしていないのがよくない」と感じていましたが、それは案に「自分は正しいのに周りが悪い」と言っているのと同じ事になると思います。


 マザーテレサが「なぜ政治家にならないのですか?」と質問されたときに、「私は敬愛するイエス様だと想い、この死に行く人の世話をしています。その方が亡くなったら、その隣の人の世話をするだけです。政治は政治家がすれば良いのです。」(詳細は違います、内容は合っています)と答えられたそうです。


 「理想的な社会を創りたい」と若い理想を掲げていたときは、このマザーテレサの発言を素直に受け容れることができませんでした。その理由は、「神の心をわかっている人が政治をするべきだ」と思っていたからです。


 しかし、「神の心がわかっている人達だらけ」になった時、『現在のような「国家」や「政治」はなくなってはず』ということが「実感」としてわかるようになった今は、マザーの気持ちがわかるような気がします。


 なぜなら、神の心がわかったとき、「幸も不幸も超越した世界に移行」できるからです。


 「アフリカの難民を何とかしたい」「宗教戦争をやめさせたい」と思っても、現在のパラダイムではそれは「不可能」なのです。理由を以下に書きます。


 アフリカの飢餓は、富んだ国が贅沢をしないだけでなくなると言われています。それですので、先進国に住む私たち一人ひとりの心根が変わらない限り無理なのです。まずは、一人ひとりの心を改めることが先です。それを「政治」という「制度」により、「貧困を無くそう」としても、新たな「共産主義」が生まれるだけです。


 また、宗教戦争は、「自分たちの宗教が正しい」「自分たちの神が正しい」と言っている限り、なくなりません。「自分だけが正しい」というものは、およそ神らしくありません。


 以前、ドルフ・ラングレンの「レッド・スコーピオン」という映画を見ました。映画自体は娯楽映画で、内容自体、おぼえていませんが、一箇所だけ忘れられない部分があります。それは、主人公ドルフ・ラングレンと先住民の酋長が会話する部分です。


 酋長:「おまえ達の世界に神はいるのか?」


 ドルフ:「いる」


 酋長:「どんな神か話してくれ」


 ドルフ:「(キリスト教の神の話をする)」


 酋長:「それでは、おまえ達の神と私たちの神は『同じものだ』。わたしたちは家族だ。」(ドルフラングレンはその種族を殺しに来た兵士という設定だったと思います。)


 と答えていた部分でした。宗教とは、そもそも「相違点」を強調するものではなく「一致点」を見つけるものだと思います。


 地球外の生命体がいた場合、彼らとも「共通点」を見いだせる「内面」が必要になってくるのだと思います。


 現実問題として、痛ましい状況があることに「見て見ぬ振り」をすることはできません。しかし、それを何とかするには「他人を非難することなく」「自らが進んで変革する」ことだと思います。


 「世界を変えたいなら、あなたがその変化になれ」とガンジーは言いましたが、世界を変える最初の場所は、「あそこ」ではなく「今・ここ」なのだと思います。他人を非難する人は、この点を誤解していると思います。


 また、「誰かのせいで、自分が被害を被っている」という考え方は、「役に立ちません」。あなたが、「被害なんて被っていない」と言うなら、被害など「一度も存在したことなどない」のです。


 あなたが、感じたように「宇宙は創造される」のだと思います。


 自殺のことも記事に書かれていたので、そのことについても言及したいと思います。


 私は、物心ついた時から生きているのが嫌でした。常に死にたいと思っていました。しかし、自殺はしたくありませんでした。理由は、「自分が存在していたという記憶が人の中に残ってしまう」と思っていたからです。わたしは、記憶の中にさえ「一度たりとて存在したくはなかった」のです。


 理由は、「親が大嫌いだったから」です。


 鬱になり、それから回復する中で、親へ対する「恨み」の念は消えていきました。今では、「全てを感謝」しています。他者から見たら、「虐待」と思えるような仕打ちがあったとしても、全ては今の「気づき」のために必要な事だったのだと感じています。それですので、「試練」はあったかもしれませんが、それは私の人生の中において、「痛ましい現実」であったことは「一度もなかった」のです。


 現在のあなたの心持ちを変えることで、変えることなど不可能と思われている「過去を変える」ことができるのです。


 それですので、私は、今の環境を選んで「生まれてきた」のだと思います。


 「自分の超えられない重荷は与えられない」とイエスは言いました。それは、「真実かどうか」は、証明できません(カヴァーロさんの写真と同じように)。しかし、私の中では、その言葉は「真実」です。「真・偽」は、それぞれの人が、それぞれの人の成長段階の中で判断し、そしてその判断基準は「変化していく」ものだと思います。


 それですので、成長の段階において、他者を非難すべきではありません。そして、もし、成長の頂点に達したなら「人を非難することはしない」と思います。



 2011/12/01(木)


 EPRパラドックスからロジャーペンローズまで



 EPRパラドックスって普通の人は知らないですよね。わたしも、科学哲学という教科を学ぶまで知りませんでした。


 EPRパラドックスっていうのは、『「アインシュタイン」と「ボーア」、どっちが正しいか決着着けようやぁ』っていうことを問題にしたものです。


 アインシュタインはよく知られていますが、ボーアはそれよりは知名度が低いと思います。高校で物理をちゃんとやっていた人は、聞いたことがあるはずです。


 アインシュタインは、一般相対性理論を説いた人であり、ボーアは、量子力学(コペンハーゲン説)を説いた人です。この二人が主張していることが「矛盾」しているのです。それでこの二人は言い争いになりました。


 その口喧嘩の内容を正確に表し、問題にしたのが「EPRパラドックス」っていうものです。


 結論から言うと、「光を超えた伝達手段が存在する」っていう事になります。簡単に言うとテレパシーのようなものが存在し、それが光の速度を超えて情報を伝達するっていうことです。


 最近、光の速度を超えたニュートリノが観測されたということがニュースになりましたが、上記の事が正しいなら、それも最もなことになります。


 「しかし、ニュートリノって物質でしょ?、テレパシーは物質じゃあないから、一緒にしてはダメでしょ?」


 っていう反論が聞こえて来そうですが、「それでは、物質と非物質の分かれ目って何処ですか?光は、波であり物質であるっていうことがわかっていますけど、それも本当に実感できます?」って反論したいです。


 自分が理解できないからと言って、ウソだと思ってはいけません。とりあえずは、うけたまわっておきましょう。


 例えば、行列式を扱える人は、n次元を数学的に扱うことができるという事が理解できると思います。しかし、3次元(時間を含めれば4次元)より大きい次元を、3次元の存在が理解できるはずがありません。実感できなくても「n次元」は存在します。


 最新の宇宙理論では、この宇宙は11次元からなると言われています。はっきりいってわかります?


 以前、NHKで「あなたの知らない宇宙」(あなたの知らない世界ではありません)という番組をやっていました。極めてアカデミックな番組です。その中で複数の膜宇宙のうち、2枚が触れあって起こった現象が、ビッグバンであるっていっていました。ですが、それじゃあ、その膜宇宙はいつできたの?っていう疑問が発生してしまいます。


 オックスフォード大学のロジャー・ペンローズ博士が、「ビッグバンは一回だけではなかった」といっています。宇宙は循環していると・・・。とめどもなく続いていると・・・。


 「じゃあ、その循環はいつどうして生まれたの?」っていう疑問が当然生まれると思います。これについては、ペンローズの三角形を思い描いて頂ければと思います。
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 ペンローズの三角形とは、あり得ない形をした「表が横になり、横が裏になり、裏が表になり・・・」という循環している三角形です。


 「この三角形の表はどこですか?」と問うことは、ナンセンスだということは普通の人でもお分かり戴けると思います。それと同じように「循環する宇宙」の「はじまり」を問うことは、同じようにナンセンスなのです。


 この3角形は、「物質世界と精神世界とプラトン的世界」においても成り立つとペンロース博士は言っています。この3角形が生まれた時が、究極の始まりだと思います。
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