2012年1月

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2012/01/31(火)


 「独立個人」という言葉は、J・C・ガブリエルさんが提唱する概念です。この言葉は・・・



   
注:今日は攻撃的な文章となっております。気の弱い方はご遠慮ください。


 「独立個人」という言葉は、J・C・ガブリエルさんが提唱する概念です。この言葉は、「誰にも依存しないで、生きていきましょう!」ということです。


 「でも、人は支え合って生きていくものでしょ?一人で生きていくなんて悲しい生き方よ!」という反論は覚悟していますが、そんな人には「でもあなたは誰かの助けを期待しているでしょ!それは依存している生き方ですよ!」と言いたいです。


 昨日久しぶりに地上波のニュースというものを見ましたが、「バッカじゃないの!?」という内容が目白押しでした。


 箇条書きにすると以下のとおりです。


  ● 行政への不信感を募らせる住民
  ● 地方競馬で頑張る中年馬
  ● 60年後の年金制度について
  ● パワハラの問題


 です。


 まず、「行政への不信感を募らせる住民」ということですが、行政や政治を信頼するということが、そもそも「間違い」です。福島の瓦礫を燃やす・燃やさないで神奈川県の知事と県民がやり合っていました。「知事は県民のことを考えていないのでは?」という声が住民から出されていましたが、知事や政治家が自分の権力や利権以上に、県民や国民の利益を尊重するはずはありません。そんな期待をかける事は、知事や政治家に依存しているという事になります。独立個人の立場ではありません。


 次に「地方競馬で頑張る中年馬」を「美談」として取り上げていましたが、これは「動物虐待」を勝手な解釈で感動している人間の「エゴ」以外の何ものでもありません。その馬が自己の意志で「走り続けている」のであれば話は変わってきますが、馬は走りたくて走っている訳ではありません。走らされているだけです。それも賭の対象として。鞭打たれながら。


 ローマ帝国では、奴隷や政治犯とかとライオンを戦わせていました。「奴隷!頑張っているね。勇気をもらうよ!」と言ったら、言ってる観戦者が間違っていますよね。それと「この中年馬」の話は同じだと思います。


 また、そのテレビで取り上げられていた人は、子どもを連れて競馬場に行っていました。広い意味での「児童虐待」です。競馬場という劣悪な環境に子どもを自由意志に反してつれていくという意味でです(幼かったため自由意志で同行した訳ではないでしょう)。


 「競馬場ってそんなにひどいわけではないでしょ!?」という声が聞こえて来そうですが、タバコを吸いながら・ビールを飲みながら・賭け事などをやるような環境が健全であるはずはありません。また賭け事は、それを継続させるという意味で環境悪化に募金をしているようなものです。カジノや公営ギャンブルを首長が進めるようなら、そんな首長はやめさせるべきです。ギャンブルで不幸になる人はいても、幸福になれる人はいないはずですから。


 「でも、そこで働いている人の生活はどうなるのよ!」という声があることも承知していますが、これは「麻薬畑で働く人の生活がおびやかされるため、麻薬を取り締まらない」といっているのと同じです。


 群馬県で発生している八つ場ダム問題もこれと同じです。必要ないダムなら作る必要はありません。そこに住む人の生活の保障は、別の問題として考えればいいのです。群馬県の知事は、この問題に関し、「県民の悲願」というようなことを言いましたが、県民の悲願ではありません。一部の県民の悲願です。そのために巨額の公費が投入されるというなら、日本全国に対しその論理的合理性を説明して欲しいと思います。


 続いて「60年後の年金制度」ですが、「そんなもの考えるだけ無駄でしょ?」と思います。『消費税増税やむなし』という世論を醸成するための「作為的報道姿勢」を感じます。「年々減少していく人口」と「横ばいの高齢者人口」のグラブが書かれていましたが、「誰かさん」達が世界的な規模で「人殺し計画」を遂行している中で、そんな安定的なグラフを書くこと自体、「ナンセンス」です。どっかの中央研究所の主席研究員のような人が、ぐだぐだ言っていましたが、単なる「科学的近視眼に陥っているバカ」に過ぎません。そんな人の見立てを信用するということも「独立個人」に反しています。


 それと「パワハラ」の問題も取り上げられていました。「何をハラスメントとするか」は、された側の主観に依ります。パワハラ故、鬱になったものから言わせてもらうと、パワハラで負ける方も悪いし、パワハラ視されることを怖れ怒れない上司も悪いと思います。


 「全体の福祉に寄与する」という意図が健全な会社にはあると思います。そうでない会社もありますが、そんな会社では生活のためとは故、働くべきではありません。例えば、マルチまがい商法や詐欺まがい商法をやっている会社です。それに準ずるものとして、銀行(サラ金系含む)・保険(互助会系除く)・株関連企業があげられます。そんな会社に居ながら「パワハラ」を云々することは「ナンセンス」です。自己の権利を主張する前に、犯罪集団から抜けるべきです。


 そのような会社でない「健全な会社」にお勤めなら、上司の顔色など伺わず、オクタゴンでのヴァーリトゥードの如く、全体の福祉のために戦うべきです。先手を取るのは良くないですが、手を出してくる(実在としての手ではなく、言葉等を表しています)相手に対しては、息の根を止めるつもりで攻撃すべき(手ではなく論理的に窮地に追い込むという意味)です。


 ガンジーや合気道の精神が大切ですが、その過程としてヴァーリトゥードを経験するのも意味があると思います。死人を目覚めさせるには、マウントを取った上でのパウンドが効果的な場合もあると思います。また、腕十字が決まっているのに、タップをしない相手に対しては(実際の暴力を表しているのではありません)、腕を折る非情さが必要です。生まれてきたことを後悔したくなるくらい追い込んであげるべきです。死を予見したら、『生きているのは名ばかり』の人も、生き返るかも知れません。


 私は、現在、「下克上パワハラ」をやっています。中間管理職の上司に追い込みをかけています。


 「この仕事は筋が通っていないので、あなたの上の上司に『筋が通っていないのでできません』と言ってください。もし、筋をとおして頂けない上で仕事が来た場合、やりませんから他の人に回してください。」と言いました。その中間管理職は、筋をとおす勇気がなかったので、「筋のとおらない仕事は○○さんには回さない様にします」とメールで返信してきました。メールでです!根性なさ過ぎ!


 空気なんか読まずにガチで行った方がいいと思います。説いて諭すには時間的猶予があまりありません。気づいた人からガチで行きましょう。



 2012/01/30(月)


 「流れに逆らって泳ぐには力と勇気が必要だ。浮かぶだけなら死んだ魚でもできる(サミュエル・スマイルズ)」大好きな言葉でしたが・・・



 「流れに逆らって泳ぐには力と勇気が必要だ。浮かぶだけなら死んだ魚でもできる(サミュエル・スマイルズ)」。大好きな言葉でしたが、間違っているのかも?と思うようになりました。理由は、エスタ-・ヒックスさんの書かれた「引き寄せの法則」を学んだためです。


 「引き寄せの法則」では、流れに乗ることの大切さが繰り返し述べられています。「川に浮かんで、流れに逆らい、上流に向かって漕いではいけません。オールを手放して流れに乗ることが大切です」と・・・


 これと、冒頭の言葉は『真逆』です。「どちらかがあっていて・どちらかが間違っている」という考え方もありますが、これも量子力学の観測者問題によると「どちらも正しいという判断ができるのでは?」と思うようになりました。


 イエス、ガンジー、マーチンルーサーキング牧師等は、私たちから見ると「流れに逆らっていた」という風に見えます。しかし、本人は「流れに乗っていたと感じていた」と考えることはできないでしょうか?


 世の中の人全てが、流れに逆らってボートを漕いでいたとしたら、「流れに乗っていた」彼らは、世の中の人から見たら「流れに逆らっている」ように見えるでしょう。これは、相対的な観点に立った場合、事実となります。


 私たちは、「ソースとつながっている」と様々な書物で述べられています。「ソース」とは、無限の叡智・創造主・神等々、色々な呼び方が可能でしょうが、「エネルギーの源泉」と考えれば良いでしょう。


 イエスもカンジーもキング牧師も、「人々を苦しみから解放してあげたい」という欲求を持っていたと思います。その思いは、ソースの想いと一致するでしょう。そのソースの想いと「同調」したため、彼らは偉業を成し遂げることができたのでしょう。


 しかし、彼らは「偉業を求めて偉業を成した」わけではありません。「人の苦しみを解放したい」という純粋な気持ちを、単純に「実現したい」と思っていただけだと思います。キング牧師は意図を強く持っていたかもしれませんが、ガンジーは違うと思います。


 ガンジーは、目の前の「できることをやってみる」から始めているように見えます。「イギリスの塩の専売は良くない」から、「自分たちで塩を作ろう」塩の行進を開始し、「流れに乗った」ためその流れが「太く・速く」なっていったのだと思います。結果として、イギリスからの独立が獲得できたのだと思います。


 「ファイナンシャルエリートによる世界支配は良くない」と思うなら、彼らと戦うのではなく「地元の銀行にお金を預けよう」から始めるのが良いのでしょう。このような手段については、映画Thrive(スライブ)で詳しく述べられています。


 「石油支配が良くない」と思うのであれば、「自転車通勤」から始めて見るのが良いと思います。自転車通勤の途中で「エネルギーを自分たちで作ろう!」という気持ちになれるかも知れません。


 流れに乗るには、「ホッとできる」ことが大切だそうです。ホッとできないのであれば、流れに乗っていないことになるそうです。鬱の人が、怒れるようになれれば、少し「ホッとする」と思います。ただ、怒りに留まり過ぎると、ネガティブになりますが、その時は「ホッとする気持ちから離れている」のだと思います。


 怒りの状態から、ホッとするには、「笑う」「赦す」とかがあると思いますが、どのような気持ちになるかは、人それぞれだと思います。要は、ホッとできればいいのです。


 私は猫を飼っていますが、どんなに怒っている時でも、猫を撫でているとホッとします。次へのステップはホッとした後に決めればいいのでしょう。まずは、少しでもいいので流れに乗る事が大切です。



 2012/01/26(木)


 エンプティーカロリーはご存じかと思います。では、エンプティーコネクションは・・・



 エンプティーカロリーはご存じかと思います。しかし、ご存じない方のために簡単にご説明します。エンプティーカロリーとは「カロリーだけはあるが栄養価はない食べ物」を差します。いわゆる「ジャンクフード」です。


 では、エンプティーコネクションは?


 『うん、聞いたことはある・・・』というあなたは、ウソをついていますネ。なぜなら、私が今さっき作った言葉だからです。一応、ネットで検索しましたが、ヒットしませんでした・・・。


 「エンプティー・アクセス」という言葉は、私がかつてネット上で交流の会った方が作った造語ですが、この意味も、エンプティーカロリーから派生した言葉で、『価値のないアクセス』という意味です。


 ブログやホームページを開設している人は、アクセス数を気にすると思います。しかし、価値のないアクセスが多数あったとしても『意味はない』のです。特に多いのが『誰かの記事をコピペしてるだけなのに、アクセス数を気にしている人』などです。そんなのは、騒音以外の何物でもありません。そのような人は、アクセス数を気にする前に、発信する内容を気にしてください。


 話を元に戻します。『エンプティーコネクション』とは『意味のない人間関係』を意味します。今の世の中は『熱い関係』が少ないです。それなのに、『誰かとつながっていないと不安になる・・・』といってスマホ等に張り付いている人がいっぱいいます。特に若年層ですが・・・。


 私が鬱を患っていたときも、似たようなことを感じました。それは、『エンプティー・コネクション』よりもさらにたちの悪い『ネガティブ・コネクション』でした。


 ネット上で同じ病気の人とつながり、「同じだよね」「社会はわかってくれないよね」「私たちは可哀想だよね」「被害者だよね」「今日も寝てしまい罪悪感をおぼえます。リスカをしてしまいました。(それに対するコメント)それでいいんだよ。自分らしく!ガンバ!」・・・・・結論:「ここにいると気持ちいいね、ずっと皆と一緒にここにいたいよ。」


 と言って、その枠の中から出てこない人が多数いました。自分から出て行く決意をした人以外、そこから出て行く人はいませんでした。今でも、その時と同じ人達が同じような記事をアップし、同じようなコメント(同情)をもらっています。


 そのような人達は、まず、そのような関係を断ち切ってください。それが全ての出発点です。


 続いて、『エンプティー・コネクション』についてお話ししたいと思います。これは『意味のない人間関係』です。「当たり障りのない範囲内」での人間関係です。例えば、「会社の普通の同僚」とか「普通の飲み仲間」や「普通の高校の同窓会」とかです。


 同じ「パッション」を持った者が、上記に該当するのであれば、意義ある人間関係ですが、「空気を読み」「顔色を伺い」「白い目で見られない範囲での言動」に留めなければならないのであれば、「エンプティー・コネクション」です。「エンプティー・コネクション」が家庭に入り込んでしまった場合、それは人生の墓場でしょう。


 『俺を怒らせるなよ!』と言った上司がいるそうです。その発言に対し、多くの社員がビビッたそうですが、『上等だよっ!。やる気!?やる気なら死ぬ気で来いよっ!』とネガティブ・コネクションから抜け出した自分なら言えますが、「空気を読む」人には言えないでしょう。


 もし、その上司とバトルになったとしても、相手が本気で全体の幸福のことを考えているなら、一時の戦いの後、必ず同士になるはずです。相手が偽物であるなら、一時のバトルの後、無視しますが・・・。関係が『ネガティブ』になってしまいますので・・・。


 本気で生きていれば、全てを『ポジティブ』に転換できるはずです。もしできないのなら、あなたの工夫が足りないだけです。



 2012/01/24(火)


 この世は優れた信念の競い合いの場ではありません。寛容でありましょう・・・



 私はイエス様を尊敬しています。ガンジーも尊敬しています。マーチンルーサーキング牧師も尊敬しています。皆優れた人達です。でも、この中で誰が一番かを考えることは、好ましくないでしょう。


 彼らの信念の共通項を見出す事は有用です。しかし、どの信念もユニークなものです。ですから、順番を付けることはできないのです。


 神との対話を読んだとき、「あの世にはこの世のようなスポーツはない」と書いてありました。勝ち負けや順位を付けることを目的とするスポーツはないそうです。


 ですが、この世の住人は「上の順位」や「優位に立つこと」に執着します。自分にもその傾向があることは否定しません。しかし、そのような考えが頭をもたげたときは、気分を変えることを心がけています。


 自分は、血の気が多いと思います。ディベートとかが得意です。なおかつ好きです。でも、勝つことだけを目的とはしていません。より良い解決策を見出したいという思いの方が強いと思います。


 自分の信念は独特のものであり、誰からも、非難されたり・優劣を付けられたりされる筋合いのものではありません。これは、自分から相手に対しても言えることです。ですが、非難されたり・バカにされたりすると、『やる気?』と思ってしまいます。そんな時は、寛容さを身につけなければいけないと思います。


 この宇宙は複雑さを増すようにできているのだと思います。エントロピー増大の法則です。よって、信念も多様化されていかなければならないと思います。生物多様性の重要さと一緒です。


 ですが、教育という名の(悪意のある?)画一化が図られているのを感じます。その枠の中での自由は保障されているのですが、その枠の外に出ようとする者には、容赦ないバッシングが待っています。


 私たちは、オリジナルの青写真をもって、この世に生まれてくるのだと思います。宿命とか運命とかがあるということを言いたいのではなく、チャレンジしたい環境を整えて生まれてくるのだと思います(人生ゲームの盤面の内容をきめてくるとお考えください)。その中で、表現したい何かを持って生まれてくるのだと思います(ルーレットを回しにくるとお考えください)。


 私たちは、神の共同創造者だと思います。神の体として、表現する表現体として生きているのだと思います。ですから、思いっきり表現すべきだと思います(人生ゲームの例で言えば、ゲームに参加し、ルーレットを回すべきです!)。


 ですが、表現したがらない人が多いのが現状で、『もっと生きろよ!』といつも思います。この後に血の気の多い自分は『生きる気がないなら、とっとと死んだら!』と余計なことを心の中で考えてしまうのですが・・・。


 晩酌にビールを飲むこと以外、楽しみがない同僚がいます。そんな彼は、健康診断でメタボ判定がなされ、ビールをやめなければならなくなったそうです。生きながらえるために、唯一の楽しみであるビールをやめてまで、生きながらえようとするそうです。矛盾しています。論理的に破綻しています。しかし、彼はビールをやめてまで、生きながらえたいそうです・・・


 矛盾しているのを認知せずに生きられるのも才能だと思います(皮肉が入っています)。自分にはできない芸当です。人間の多様性を感じます。


 先日見たアメージング・グレイスで、奴隷貿易船の船乗りが、奴隷をレイプできるのに驚きました。その船乗りはその奴隷に女性としての美しさを認知できるのに、奴隷として売買できるという事が理解できませんでした。最悪でも、自分の肉奴隷にするのが合理的な判断でしょう。


 ロスチャイルドの農園では、1日だけでもノルマを果たせなかった少年の右腕を切り落とすそうです。見せしめとして。マイケルジャクソンの右腕の手袋は、それへの抗議だと言われています。彼らに反目したため、マイケルは殺されたそうです。(ジョンレノンもそうです。)


 誰もが、オリジナルの価値観を表現しています。否定したい信念もありますが、それは『相手の勝手』です。『自分は自分の信念のチェック』だけをすべきです。他者との優劣をつけた時点で、過去のパラダイムへ退行することになってしまいます。否定したい信念があっても寛容であるべきです。そんな時こそが、寛容さを表現する最高のシチュエーションでしょう。能力の限界にチャレンジし、相手を受け容れましょう!



 2012/01/23(月)


 昨日、悪夢を見ました。何度起きても、その続きからストーリーが開始されました。結論は・・・



 昨夜、悪夢を見ました。最初に目が覚めたのは、午前2時位でした。「ああ、夢で良かった・・・」そんな感じの内容の夢でした。トイレに行ってまた寝たのですが、その後もその悪夢は続きました。


 夢は続きから始まりました。しかし、起きていた時の記憶はありません。まるで映画「マトリックス」のようです。キアヌリーブス達がネブカドネザル号で横たわった後、マトリックスに潜入するかのように・・・


 自分もまさに、そんな感じで夢に入っていきました。夢は続きからでした。幾つもの障害が発生し、それをクリアしていきました。ですが、クリアできないところで、また目が覚めます。


 「ああ、夢で良かった・・・。でも、この夢変だ。つながっているし、良く内容をおぼえている。また寝たら、続きから見るのかな?じゃあ寝たくないけど寝るか・・・」


 といって寝たのが、午前4時位です。またもや続きからスタートしました。


 夢の中で、かつて躊躇し続けてきた問題が、再度発生します。覚悟を決めて解決に向けて行動を起こしました。


 結論として、その問題はクリアしました。クリアした時点で目が覚めました。5時30分でした。クタクタで、自転車(CERVERO(トライアスロン用))で通勤するのは無理だと思い、スーツを着ました。


 今、現実問題で、自分が解決不能な問題はあまり発生しません。問題が発生しないという意味ではありません。解決してしまうために、「解決不能な問題が発生しない」という意味です。


 それなので、夢の中で「鍛えられている」のだと感じました。夢の中で、「死と隣り合わせの中で、冷静に判断して、その場から生還する」という場面が今回の悪夢の中でありました。


 命の危険に遭遇することは、あまり現実世界では体験できないでしょう。マトリックス中のキアヌリーブズのような体験は、「マトリックス」の中以外、体験できないでしょう。それが、今回のような「悪夢」なのだと思います。


 自分の場合は、過去に置き去りにしてきた課題が再度試されているように感じました。そのように考えた場合、今夜も悪夢を見るのかも知れません。昼も夜もエキサイティングなんて「ついてる!」と感じました。



 2012/01/20(金)


 私は虚栄心が強いのに気づきました。それを脱ぎ捨てると・・・



 昨日、『正当な評価』について書きました。結論として、『他人に正当な評価を期待しても、それに振り回されている限り、あなたの人生は辛いものになる』ということを書きました。これは、自分の経験から感じたことです。


 自分も『自分の提案が評価されるべき』と考えていました。しかし、ボツになることもあります。そんなとき、『この提案の良さがわからないのは、バカかやる気のないやつだ!』と怒り狂いました。


 実際、自分の提案が内容的にお粗末なのかとも思い、権威ある人に読んでもらいました。その権威ある人とは、東大卒でハーバード大も卒業した総務省に勤務するエリートキャリア官僚さんです。(私は権威主義ではないですが、左脳が優秀という点では、皆さんも異論はないと思います。)


 私の素性を知らないその官僚さん(家内の友達の旦那さんです)は、複数の論文を読んだ後


 官僚さん:『こいつはどこにいるんだ!』


 奥さん:『○○よ。言ったじゃない。でも、採用されなかったみたいよ。』


 官僚さん:『○○レベルじゃこの内容はわからないだろう。これは国家レベルだ、もっと言うなら学者向きだな・・・。ただ、ちょっと宗教がかったところがあるのが気になるが・・・』


 という会話がなされたそうです。自分としては、わかる人にはわかってもらえたのでうれしかったのですが、この『うれしかった』というのが、問題点なのです。


 私は、『自分が評価されることを気にしていた』のです。これは、昨日の結論から、辛い生き方になります。


 『自分が評価されることを気にする』ことを『虚栄心』と言うのだと思います。もちろん、正当な評価をもってそれを満たすのであれば、『プライド』という言葉をあてても差し支えないでしょうが、どちらにしても似たようなものです。単なるラベル貼りの違いに過ぎません。自分の外に物差しを置くという点では、全く同じです。


 先日、自分の中に強い『虚栄心』という名の『エゴ』を発見したとき、それを手放すことにチャレンジしてみました。上手く言葉で説明はできないのですが、兎に角、虚栄心の皮を一枚ずつむいて行ったのです・・・


 全部むききったとき、デルフォイの神託から『無知の知』を悟ったソクラテスの感覚をちょっと垣間見た気がしました。(大それた発言ですいませんが、本当にそのように感じたのです・・・)


 私が、提案を書いた根幹の動機は、『皆の幸せ』です。それが、「目的」なら採用されなかったとこを残念がっても、評価しない相手に対して怒りをたぎらせるはずはないはずです。


 『人からの目』というものを意識するように私たちは教育(洗脳)されてきました。『常識』という枠の中での『良識的な自由の行使』だけを許されてきました。そのため、多くの人が疑心暗鬼になり、自分を表現できなくなっているのを感じます。


 それは、尊厳生を生きていない事になります。他人があなたの尊厳をないがしろにするかどうかは「相手の勝手」(本当はそうではいけないのですが・・・)ですが、あなた自身があなたの尊厳をないがしろにすることは、あなたの存在目的に反しています。そのような生き方は辛いものであり、あなたを生きていることにはならないと思います。



 2012/01/19(木)


 あなたは、「会社」または「家庭」から『正当な評価』をされていると思いますか?そう思えないのでしたら・・・



 あなたは、「会社」または「家庭」から『正当な評価』をされていると思いますか?そう思えないのでしたら、以下の記事を読んでみてください。


 多くの人が、家庭または会社から正当な評価がなされていないとお感じのことと思います。


 「わたしはこんなに頑張っているのに、夫は全然その苦労を理解してくれない!」


 「俺はあいつより仕事ができるのに、何であいつの方が昇進が早いんだ!」


 と言うような不満をお持ちの方が『正当な評価をされていない』人達の候補です。ですが、評価する側、すなわち、『夫』や『会社』は、自分たちの『正当な評価』故に、あなたを『そのように評価』しているのかも知れません。


 この場合、両者における『正当な評価の基準が異なっている』という事になります。この場合、『どちらが正しいか?』を簡単に決めることはできません。もし簡単に決めることができるのであれば、裁判などが長期に及ぶ事はありません。


 私は、今高卒扱いの給料に降格されています。理由は、鬱を患ったからです。私が鬱になった理由は、社長と部長と課長に『どんどんやってくれ!』と言われたことを進めていたときに、その下の次長に別室に一人呼び出され『何をやっているんだ!今すぐやめろ!』と言われたことがきっかけです。


 元々、コンピュータシステムのSEをやっていましたので、『論理的でない命令を処理できない体質』でした。GOという命令とSTOPという命令が、同時に出されたため→判断and処理不能となり→鬱、となりました。


 今なら、『はぁ?もしSTOPという命令を出すなら、上を通してからにしてくれますぅ!?』と言えますが、その時はそこまでの強さはありませんでした。


 その後、1年半の休職後、復職したのですが、高卒扱いに降格されていました。周りが昇進しているのに、自分が全然昇進しないので「あれ?」と思ったら、そのような事でした。


 私は、SEをやめた後、今の仕事に就いたのですが、企画提案で何度も『社長賞』をもらっていました。すなわち、今の会社でも『成果を出していた』のです。しかし、その時は、それは評価はされませんでした。給与や異動の点においてです。


 しかし、社長賞を受賞し続け、新聞にも取り上げられ・テレビにも出て(地方ですが)、やっとその成果を評価され、異動だけは希望どおりとなりました。(新規に創設された社長直轄の部署へと異動となりました。給与は同じですが・・・。)


 その中で、先の「今で言えばパワハラ」を受け鬱になりました。その後、左遷され・降格されました。


 今の会社の自分への評価は『正当なもの』ではないかもしれませんが、それをどうこうしようとは思いません。


 会社に取っては、『正当な評価』をしての判断だと思います。


 これと似たようなことが、色々なところであるのでしょうが、相手の判断を私が変えることはできません。「相手から正当な評価をされない限り、自分は幸せになれない」というのであれば、あなたの人生は辛いものとなってしまうでしょう。


 自分への評価は相手に任せ、自分は自分の気持ちを尊重すればいいのだと思います。


 How do I fell now!(今、自分はどのように感じているか)


 は、エイブラハムの教えですが、ここにのみ注目すればいいのだと思います。


 例えば、『不当な評価だ』というのは、『あなたの感じ方』です。すなわち、あなたが『不当』と見なさなければ、不当でなないのです。もちろん、不当と思える評価を、正当と思えと言われても、無理だと思います。


 それですので、「不当かも知れないけれど、一端その判断はやめておいて、良い面を見てみようじゃないか」という気持ちをもっては?と言いたいのです。


 自分の例を取り上げると、「降格されているけど、そのため忙しくない。少なくとも、安定した収入は得られる。嫌ならまた会社を変わればいいじゃないか。でも、それには準備がいる。そのために、今、腰掛けとして経験を積めばいい。経験を踏めるし転職のための勉強を『仕事』としてできる環境である・・・って考えるとついてるじゃないか!」と考えることも可能です。


 この時、「How do I fell now!」と問いかけたなら、『気持ちいい』なのです。そうすると、『気持ちいい』事が引き寄せられてくるのです。これが、世に広まっている『引き寄せの法則』の本質です。


 あなたが、否定的な波動を出し続けている限り、そこから逃れることはできません。波動を変えて、いい気持ちになることが、状況を改善することの最初のステップです。あなたが、その波動を出し続けているなら、環境がいずれ変わるでしょう。しかし、『いい気持ち』である場所にいるあなたに取っては、状況はどーでもいいことになっているはずです。


 状況について、いい格言があります。それをお伝えして、今日の記事は終わりにします。


 Meanings are not determined by situations, but we determine ourselves by the meanings we give to situations.  Alfred Adler


 意味は状況によって決定されるのではなく、私たちが状況に与える意味によって、私たち自身を決定するのだ。 アルフレッド・アドラー



 2012/01/18(水)


 歌詞を作りました。誰が「ボカロ」で曲にしてください!



 昨日は、尊厳生についての記事を書きました。それのちょっと砕けたバージョンの記事を書きます。


 私には、娘がいますが、その娘が「ニコニコ動画」と「ボカロ(ボーカロイド)」にはまっています。


 「私も、曲をアップしたいあなぁ~。曲は作れるかも知れないけど、歌詞がかけない・・・」


 と申しておりました。娘は、ずっとピアノを習っていますので、曲は本当に作れるかも知れません。しかし、歌詞は本当に作れないかも・・・と思いました。


 「それなら、歌詞はお父さんが書いてあげるよ」


 「やだー、どうせ小難しいの作るんでしょ?」


 「大丈夫、お父さんが○○になったつもりで書いてあげるから!」


 と言う経緯で歌詞を書いたのですが、いっこうに曲を付ける気配がありません。それで、曲を不特定多数の形にお願いしたいと思います。


 「ニコニコ動画」では、「妻が毎日死んだふりをしています」という知恵袋の投稿から、名曲が生まれました。twitter発信の曲ができてもいいかな?と思います。誰か曲を付けてください。真面目にお願いします。


 歌詞の内容は、『中学生くらいのませた女の子が、一般的な家庭で育てられている中で感じるような事柄を、イエスや釈迦の教えを交えながら、平易な言葉で表したもの』です。以下に示しますので、よろしくお願いします。


曲名:「天上天下唯我独尊」
作詞:TAPA


それってホントにやりたいこと?
「やれっ」て言われているだけじゃないの?
やらなきゃならないことばかり、やるために生きてるわけじゃない!


明日死んじゃうとしても、それをやるの?
それはそれで良いけど、後悔しない?
私は嫌よ、そんな生き方。


やりたいことをやれば良いじゃん、今!
やりたくないことは、やらなくて良いじゃん。
やらなきゃならないことばかり、やるために生きてるわけじゃない!


「将来のため」って良く言うね。
そのために、今を犠牲にするの?
「あなたのため」って言うけど、言ってる「あなたのため」じゃない?


私は生きる、私のために。
私はあなたのものじゃない!


明日死んじゃうとしても、それをやるの?
それはそれで良いけど、後悔しない?
私は嫌よ、そんな生き方。


永遠に今を犠牲にするの?
あなたが生きるのいつなのさ?
「生きているのは名ばかりで」て、「それ」ってまさに「これ」じゃない。


私は、「瞬間(いま)」を生きたいの。
みんなにも、それを選んで欲しい。
みんなが一つで一つの宇宙、天上天下唯我独尊!



 2012/01/17(火)


 尊厳死を考える時、尊厳生についても考えさせられます。



 このブログは、篠崎由羅さんのブログ『YOU are EARTH』に対するコメント的なブログとなります。この本文を読む前に、リンク先の記事をご覧ください。


 まず、「生死観」を語るときに、その人があの世というものを信じるか・否かが重要なポイントになります。しかし、あの世を信じないという事を前提にお話しを進めるのが、わかり易いと思いますので、あの世はないという前提で、これ以降の検討を行います。


 形而上学的な世界観を持たない人が、日本においてはほとんどだと思います。しかし、そのような人でも、真面目に生きています。例えば、宗教を持つ人があの世での裁きを恐れるが故、真面目に生きたとします。この場合、どちらが尊いでしょうか?


 本来、他者との比較というのは、すべきではありませんが、この例では「動機」に着目したかったので、あえて比較という形を取りました。


 尊いという点では、前者だと思います。理由は、『打算がないから』です。後者は、裁きを免れたいという思惑から、真面目に生きているに過ぎません。本来は、「真面目に生きたいから、真面目に生きる」がよりよい考え方だと思います。


 天国に入る為に、人を愛するというのであれば、それは愛ではありません。ある種の契約です。愛は、愛したいから愛する以外の形態では存在しないと思います。


 「生きているのは名ばかりで・・・」とイエスは言いました。肉として生存はしているが生きてはいない人が多いということを指摘したのです。


 尊厳死は、『肉として存在するだけなら、潔い死を選ぶ』というものです。あの世を信じない次元で、このレベルで生きる事が望ましいと思います。


 この基準で死ねる人は、『尊厳生を生きている』と言えると思います。いつでも死ねる基準で、今を生きているのです。


 ただ、この基準に達するのは大変だと思います。人間の境界線や限界近くで生きている人は、この気づきを得る可能性が高くなると思いますが、前例踏襲しかできない人(お役人達等)には難しいと思います。それですので、それらの人達は、もっと真剣に生きないとダメだと思います。


 では、いつでも死ねる基準で生きるとして、はたしてその時、生きる目的とは「何になる」でしょうか?


 いつでも死ねる基準で生きている人が、この世的な成功を求めるはずはありません。それですので、地位や名誉やお金などが、人生の目的にはなり得ません。


 この段階での人生の目的は、『あなたが今現在豊かであり、なおかつその豊かさをさらに拡大していくこと』となると思います。


 この段階での豊かさとは、家やお金ではありません。あなたの意識が豊かを感じる時が豊かの基準です。この豊かさを永遠に延長していくということがこの宇宙の創造目的だと私は思っていますが、これを考え始めると形而上学になるのだと思います。


 2012年はアセンションの年だと思われていますが、宇宙的な流れで言えば間違ってはいないと思います。しかし、いつでも死ねる基準で生きていない人がアセンションすることはないと思います。なぜなら、アセンションとは、イエスの天昇から派生した言葉であり、その基準に達しない限り、アセンションは無理だと思うからです。


 『分かち合い』自分の分を不当に取られるので嫌だという人が、愛の世界に移行したなら、まさに地獄でしょう。ですから、そのような人はアセンションしないですから、安心しいてください。アセンションがあったとしても、誰もが最も心地よくいられる場所に移行するだけです。ある人に取っては、このままの地球であり、ある人に取っては次元上昇した『新たな地球』です。どちらにしても、気にする必要はありません。今を生きちぎることが大切です。



 2012/01/12(木)


 映画:「Thrive」(繁栄する)を見ました。ネットで500円で見られます!是非見てください、世界と自分を変えるために!



 昨日、映画「Thrive(スライブ、繁栄する)」を見ました!感動しました。内容的において、かつ、この映画が作成されたという点において、かつ、この映画がネットで全世界に配信されている点において。


 ネットで「Thriveというとてつもない映画が公開された」という情報は得ていました。しかし、その日本語版があるということはしりませんでした。ですが、J・C・ガブリエルさんの「ルネッサンス2012」というネット番組で「今なら5ドルで日本語版が見られます」ということを教えて頂きました。


 すぐにも見たいと思ったのですが、10日(ルネッサンス公開日)は体調が悪く、見る事ができませんでした。


 11日は急いで家に帰り、即座にネット検索して、映画を購入しました。


 3部構成になっていたと思います。まず、第1部で感動しました。兎に角、すごいの一言です。地球外生命体やクロップサークルのことなどは、色々と調べていたのですが、トーラスの話は知りませんでした。これはすごいの一言です。理系を生きてきた人間に取っては、震激の出来事です。


 2部は知っていた内容ですが、「こんなことを大っぴらに言えるなんて!」と驚きました。詳しく書くとネタばれになるので、書きません。見てください!


 3部は、今後の指針を占めすものでした。「こんな世界がくるのが2012年以降なんだ・・・」と予感できました。


 「2012なんて、都市伝説だ、なんにもおこらないよっ!」という声があるのも知っていますが、そう言い続ける人は、そのままかも知れません。しかし、いつかは変容するか消滅するかのどちらかだと思います。もちろん、消滅するといっても、本人の意向が無視されるわけではありません。消滅する人は、誰もが尊重される世界なんて住みたくない!私だけを尊重してくれる世界に行きたい!といって、新たな次元からは消え去ることになるのでしょう。


 欠乏感をエネルギーとして活動するエゴの世界が消滅するのだと思います。この映画を見て、それを確信しました。点と点が線になり、面が空間になり始めた!と思います。Thriveのムーブメントは紛れもなくそのきっかけの一つでしょう。


 この映画は、2011年11月11日に公開されたそうです。その映画を2012年1月11日に見ました。これも何かの縁かな?とも思います。ちなみに私の車のナンバーは「2012」です。申請してもらったナンバーですが・・・。


 Thriveの詳しいことは、Thriveでアクセスできます。良かったら見てください。



 2012/01/11(水)


 「生き急いでも構わない 飛べるのに飛ばないよりはいい」by Dragon Ash



 今、DragonAshの「日はまたのぼりくりかえす」をカラオケで歌えるように練習しています。いい歌詞なんで。


 その曲の中に、冒頭の歌詞があります。この歌詞はもう1フレーズ、1番で歌われています。それは、「生き急いでも構わない 理由がいる(必要な)人は残ればいい」というものです。


 DragonAshは、「一緒に生きようよ。でも、一緒に行けない人は無理しなくていいよ」と一番で投げかけます。二番では、「飛べるのに飛ばないよりはいい」と歌い上げます。「失敗してもいいよね!やらないよりは・・・」と一人でも行く決意を表明します。


 DragonAshのボーカルの降谷さんが作詞・作曲をしたものですが、等身大の意見を素直に表現されていて、とても好感が持てます。


 曲は、ラップと呼ばれるもので、今年、4回目の年男を迎える人間が歌うものではないのかも知れませんが、「歌えるのに歌わないよりはいい」と思い、娘と一緒にカラオケに行くときのために練習しています。


 DragonAshの曲では「Greatful Days」も好きで、おぼえました。ZEBBRAの歌う「俺は東京生まれ、HIPHOP育ち、悪そうなやつは大体友達」という歌詞が一世を風靡しました。自分にも同じ面がありましたので、この曲も共感できました。


 ZEBBRAと降谷さんは、この時、初めて共演しましたが、その後は袂を分けたそうです。降谷さんがZEBBRAのパフォーマンスをパクッたとかで・・・。真偽はわかりません。


 ラップと言えば、エミネムの映画「8miles」を思い出しますが、言葉がわからないとやっぱりラップはダメだなと思いました。エミネムの曲も耳当たりは良かったのですが、如何せん言葉が聞き取れませんでしたので、本意は伝わらなかったと思います。それに対し、降谷さんのラップは気持ちがこちらの胸にストレートに入ってきます。


 古文で韻を踏むというのを習いましたが、「何が面白いの?」と感じていましたが、現代の韻を踏む文化であるラップは、とても格好いいと思います。古文の時代には、その時代は韻を踏むのがカッコよかったのだと思います。ですので、現代は現国の時間にラップを取り上げるのもいいのでは?と思いました。


 「人は歩みを止めたときに、そして挑戦をあきらめたときに年老いていくのだと思います。」はアントニオ猪木が引退するときに、口にした言葉です。この言葉も大好きです。これと「飛べるのに飛ばないよりはいい」は相通じると思います。


 現代の教育では、飛び方を教科書では教えますが、飛び方を実地では教えません。その上、飛ぼうとする子どもに対して、「どうせ失敗するから、やめておきなさい」「将来のことを考えて、そんなことはあきらめなさい」といういらないお節介を宣います。


 「生きたことのない人間が上から目線で偉そうなことを言うんじゃねえっ!」と、悪そうなやつらから「この(真面目な)格好で、ワルなら本当のワルじゃん・・・」と引かれた経験のある自分は、そんな大人達に言ってやりたいと思います(4回目の年男を迎えた大人ですけど・・・)。


 歩みを止めないそして挑戦をあきらめない自分は、歳を取らないのだと思います。皆さんも飛べるなら飛んでください。その方が楽しいと思います。



 2012/01/10(火)


 善だけの世界というのは、本当に存在しないのでしょうか?



 善だけの世界というのは、本当に存在しないのでしょうか?この問いかけは、過日のブログでしました。結論から言うと『存在しない』のだと思います。なぜなら、全てが『善』であるなら、善悪の観念自体存在しない事になるからです。


 聖書の創世記に「失楽園の物語」が書かれています。アダムとエバが神の言いつけに背き、善悪知る木の実を食べたことが、そのきっかけです。エデンの園には、この木の外に、生命(いのち)の木がありました。この木の実を食べると永遠に生きる者になります。


 善悪を知るものとなったアダムとエバが永遠に生きる者になることを避け、神はアダムとエバをエデンの園から追放したことになっています。これが失楽園の物語です。


 善悪を知るものになることが、原罪を背負うことになったということです・・・


 長いこと聖書と関わってきましたが、この部分はどうしても良く分りませんでした。


○なぜ、神は罪を犯す可能性がある環境に二人を置いたのか?
○なぜ、善悪を知ることが罪なのか?
○なぜ、善悪を知ったものが永遠に生き続けてはいけないのか?
○二人をかどわかした年老いた蛇とは何なのか?
○蛇は二人より前に善悪を知っていたのではないか?
等々


 物の本によると、善悪を知ること自体が最初の祝福であったと宣っていた本もありました。一理あるかと思いますが、永遠に生きる者という権利を剥奪されたのですから、正解ではないと思います。


 よく日本語では、尊いもの・永遠なるものとして、『真・善・美』があげられますが、本当にこれら全てが尊いでしょうか?


 私は哲学をやってきましたので、『善』とか『正義』とか言うことも考えてきました。しかし、これらはあくまで相対的であり、画一的に定まる『善』とか『正義』は存在しないということに気がつきました。


 しかし、『真』は画一的に定まると思います。ゲーデルの不完全性定理により、証明不能な世界があったとしても、それ自体が『説明できる内容』であるからです。宇宙が、『方程式で解を得ることができないため反応できません』という反応を返さないことがないことからもそのように言えると思います。


 未知なるクォークが発見されたとき、それ自体が観測者による観測行為によって生み出されたのかも知れませんが、宇宙はある法則でそれを生み出すのです。それですので、画一的な真は存在すると言えると思うのです。


 また、『美』に関しては、集合的無意識による原型が人間の深層にあると思います。多くの人が、長くてニョロニョロするものを嫌います。それは、ヘビを連想するからです。ヘビは、人間にとって、特別な存在です。聖書に最初に登場してきますし、神からの使いとして描かれたり・サタンとして描かれたり等々、様々な地域・時代で、人間と特別な関係を持ってきました。


 これは、人間の深層に共有する何かがある故だと思います。これが、ユングの言うところの集合的無意識なのだと思います。それとは逆に、目の大きくて柔らかく温かいもの(子猫や子犬)を人間は好む傾向があります。これも教えられたものではなく、自然にそのように感じるのです。


 これらのことから、人間には、美に関する共通項を持つのだと思います。この部分は、地球外生命体が存在するなら、その存在とも共通する部分だと思います。


 キアヌ・リーブス編の『地球が静止する日』で、地球外生命体のキアヌ・リーブスが、バッハのゴールドベルグ変奏曲を聴いて『beautiful』とつぶやきました。本物の地球外生命体が存在していたとしても、そのような反応をすると思います。


 よって、善・悪のみが永遠に存在し得ないものになると思います。失楽園の物語から発生した善悪の世界は、2012年12月21日以降、善悪の存在しない世界へ移行するのかも知れません。


 善悪の観念の存在しない世界を想像してくださいと言われても、想像できないと思います。同じ事は、時間についても言えます。


 私たちは、時間は存在すると思っています。しかし、本当は今という時が、無数に存在すると考えることも可能ですし、そのようであると思っています。また、あちらの世界は永遠であり、あの世の生活が長い魂は、時間という概念を理解できないとスウェーデンボルグの本で読んだことがあります。


 2012年12月21日移行は、時間の流れさえ変わっていくのかも知れません。



 2012/01/05(木)


 全てのものには、ポジティブな面とネガティブな面があります。できれば、ポジティブな面を見るようにしましょう。



 全てのものには、ポジティブな面とネガティブな面があります。コインの表面だけを作るのができないようにです。表を作ると必ず、裏の面ができてしまいます。


 善悪についても同じ事が言えます。善が善として認識されるには、悪がないとわかりません。比較対象がないとわからないのです。表と裏は、デジタル(二値のみ)ですが、善悪はアナログ(連続で変化)です。ポジティブとネガティブもアナログです。


 その無限に変化する中で、どこを見るかは、私たちにかかっています。最悪と思える状況の中でも、幸せを見いだせる能力が、一昔前にはやった生きる力なのだと思います。


 ですが、善だけの世界というのは、本当に存在しないのでしょうか?(これについては、別の機会に書きます。)


 これを考える前に、No.1について考えて見たいと思います。年末年始のTV番組で、勝ち負けNo.1を決めたり・見せたりする番組が多数ありました。例えば、No.1ダンサーなどです。


 はたして、No.1ダンサーを決めることに意味はあるのでしょうか?ダンスは楽しむためのものであり、優劣を付けるものではないはずです、本来は。それなのに、ダンスバトルとかいって、勝敗や優劣を付けたがります。


 「ミシュランの三つ星シェフの料理」と「愛娘が初めて作った料理」、どちらが上でしょうか・・・


 『料理を、味だけで判断するのはゲスの考え方である』と以前、慶応大卒の焼き鳥屋さんが言っていました。料理は、「何を食べるのか」より「誰と食べるのか」が重要だとよく言われます。それに加えて、『どのような想いで作られたか』も非常に重要だと思います。


 それら全てを総合して『おいしく、感謝して、いただける』のがその人の人間性だと思います。


 学校教育の図画工作で、金賞や銀賞などを付けます。上手くまとまっているものに賞を付けます。しかし、子どもが一生懸命作ったのであれば、ヘタであっても金賞なのです。それをくみ取れない生き方は、不毛です。


 人と競うのも良いですが、戦い終わればノーサイドであればよいです。お互いに楽しむために競うのであれば、問題ありません。しかし、相手に勝つことを目的にしたら、それはゲームの楽しみ方をはき違えていると言えます。


 これは、人生についても同様です。人生を戦いに喩える人がいますが、そのような生き方は辛いと思います。人生は、楽しむためにあると思っています。豊かさを享受するためにあると思っています。人生を戦いに喩える人は、その対極の生き方をしていると思います。


 人生に起こる様々なことを、ポジティブにもネガティブにも捉えられると思います。起こることは同じであってもです。ポジティブの面のみを見るのであれば、人生は生きやすいです。そのように生きましょう!



 2012/01/04(水)


 昨年の漢字一字は『絆』だったそうですが、あんまりよくないと思います。



 昨年の漢字一字は『絆』だったそうですが、あんまりよくないと思います。


 『震災を皆の絆で乗り越えた・乗り越えようとした』ということで、『絆』なんだと思いますが、絆をわかり易く申しますと「自分と共通項のある人を、共通項があるという所以で、その人を助ける」という意味だと思います。


 これは裏返すと、「相反する『絆』を持つ人は助けないかも知れない」もっと言うなら「敵対する絆を持つ人であるなら、戦争をしても己の『絆』を守る」ということになると思います。


 わたしは格闘技が好きです。その一環で『The Outsider』という格闘技イベントのDVDも見ます。これは、前田日明さんが主宰するものですが、登場する選手は『元暴走族のリーダーやクラブの用心棒』というような輩です。3割くらいの人が、背中に入れ墨を入れています。


 彼らが、口にするのも『絆』です。『チームのために戦う』と宣います。ナレーターも『鉄の絆で結ばれた男達』等というような枕詞を使います。任侠や暴力団の世界でも、『契りを交わした中』などと言います。これも強い絆の一例でしょう。


 「絆で結ばれた者同士」と「絆で結ばれた者同士」の争いというものが、世界中の至ることをで見受けられます。争いのほとんどが『絆』対『絆』です。ですから、絆が争いを生み出すだけであるなら、絆などいらないと思います。


 『でも、家族の絆とかは大切でしょ!それもいらないって言うの?』


 と反論されるでしょうが、家族においても絆はいらないかも知れません。家族の中にあるべきものは、『愛』であるからです。『愛の中あるもの』と『絆の中にあるもの』は「似ている」と思われるでしょうが、これは全く異なります。


 『絆の中にあるもの』については、既に述べましたので、『愛の中にあるもの』について述べたいと思います。


 「愛とは、絆を異にする者達から、同胞(同じ絆を持つ者)を傷つけられたとしても、傷つけた者を赦し・可能であるなら愛をもってその人の成長を促す(過ちを犯したという事を認識できるまでに育てる)」という事だと思います。


 ついに2012年に入りました。昨年以上に多くの変化が起こるでしょう。それを、絆のレベルで超えようとするなら、戦争が生まれるかも知れません。しかし、愛のレベルで受け容れるなら、変容を促すことになると思います。


 2012年は、この地球が進化する時だと思います。しかし、それを起こすのは、自分を含め・個々人しかいないのです。一人ひとりが変化の中心になることで、地球が変化するのだと思います。まずは、自分が変容しましょう。



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