2012年4月

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 2012/04/22(日)


 新しい環境でスタートを切りました。転職ではありませんが・・・



 4月から新しい職場に異動となりました。全く経験のない分野で、正直、戸惑いました。更新が滞ったのもそれが理由です。


 私は、哲学等が好きでしたが、大学は電子工学科に進みました。就職に有利という理由だけでです。そして、4年の時に専攻したのは、半導体物性です。研究テーマは「アモルファス三酸化タングステンにおける『光インターカレーション効果』について」です。実用性は全くないと思われる内容ですが、人類として初めて発見した現象がありました。研究者としては、「本望」でした。


 就職は、「直接、人の役に立てることやりたい!」ということで、メディカルエレクトロニクス分野に進もうと思いました。只今、世間を騒がせている光学機器メーカーに就職しました。しかし、専門が『物性』ということで、希望の分野には配属されず、「半導体技術センター」という研究所に配属されました。


 担当業務は、「SIT固体撮像素子のSPICEによるシミュレーション方法の確立」でした。1年位でなんとか形になりました。


 しかし、自分のやりたいことは、『真理探求』であったため、1年で会社を辞め、大学在学中から活動していたと「ある団体」に属することになりました。


 『真理』を求めていたのですが、その団体が「まがい物?」であるか、または、自分が「まがい物?」という結論に達し、フェードアウトする形で、その団体を後にしました。


 今となっては、存在するすべての団体が「まがい物」だと思います。例えば、「正当なキリスト教団体」があったとしても、その団体は「団体」となった時点で、『イエスの教えから離れたもの』になっているはずです。ブッタの教えについても、同じことが言えると思います。「宗教」となってしまった時点で、その教えは「不純物を含む」ことになります。


 だからといって、各宗教に生まれた「偉人」を否定するということではありません。日蓮・親鸞と道元の教えは、「他律」と「自律」という相反するものだと思いますが、どちらも真理の一端を表していると思います。ただ、どちらであったとしても、テーラワーダ仏教を信じる人達から見れば、日本の仏教は「まがい物」になるはずです。


 マザーテレサは、カトリック教徒です。その筋の方にはよく知られているように、「悪の片棒」を担いでいる「バチカン」に属していることになります。しかし、マザーの活動は『愛』に基づくのもであることは間違いありません。


 私が学生時代から数年間、属していた団体も、紛れも無く「悪の片棒」を担いでいます。ですが、その中で「経験したこと」は、自分の成長のためにはなりました。ゴールドマン・サックスも「悪の片棒」を担いでいることは間違いないですが、その中で「何かを学び」、その悪行を暴露し、辞任したある幹部の方がいました。少なくとも、彼の成長のためには、ゴールドマン・サックスも役に立ったと言えると思います。


 そして、どんなに「悪」と思える存在・団体が「いる」と思えたとしても、それらは、「単独」では「悪」にはなれないはずです。私たちが、彼らの悪行に「不作為的な賛同」をしたため、『巨悪』になれたのです。


 ニール・ドナルド・ウォルシュさんの「神との対話」の中で、『ヒトラーとて悪ではない。あなたたちが、彼に賛同したから、ナチスが生まれたんだ』というようなことを『神』が言っていました。ナチスの党員、一人ひとりは、それほど悪くはなかったのでしょうが、「自分さえよければ・・・」という思いが、ヒトラーの行為を増長させたのだと思います。


 私は、その団体からフェードアウトする過程で、再就職することになりました。「世界一の町工場」と揶揄される一流印刷会社に入社し、「エレクトロニクスデザイン研究所」という所に配属となりました。担当業務は、「スタンダードセル方式のASIC設計のターンアラウンドタイムを短縮するためのデータベースを有するCADシステムの開発」でした。とある精密機器会社と共同開発になり、その担当者として、開発に従事しました。開発した製品は、幕張メッセの「EDAフェア」に出展されました。日経エレクトロニクスにも製品紹介の論文が掲載されました。開発者としては、「本望」でした。


 しかし、「これが本当に人のためになるのか?命懸けで仕事をしているのに・・・」という思いから、転職することにしました。転職先は『全体の奉仕者』です。試験は難しい方から、4種類受けました。仕事の都合で、面接を受けられない試験もあったので、「3勝1負」という結果でしたが、最も難しい試験には合格できました。その試験に合格し、採用されると「キャリア」と呼ばれます。


 「一次試験合格後からの官庁訪問」というルールを知らなかった自分は、「キャリア」としては採用はされず、地方の『全体の奉仕者』になることとなりました。


 「人のために役立つことをしたい」と思って転職しましたが、最初に配属されたところは『一作業員』でした。楽チンな生活でしたが、「研究・開発」に従事してきた自分は『システムに潜在する機能不全』を感じるようになりました。大所高所からその機能不全を改善できる部署へ異動し、『システムを改革したい』と思いようになりました。企画立案制度に応募し続け、何度も優秀賞をもらいました。それらが評価されたのか、10年後に念願かなって、『新設された知事直轄の部署』に異動となりました。


 「志を同じくする者たちと『全体の福祉』に貢献できる!」と思い喜んでいましたが、周りは「事なかれ」と「立身出世」だけが目標である『お役人』だらけでした。しかし、彼らが『お役人』であることを悟ったのは、鬱を患い、それから復活する過程ででした。鬱になった過程は以前書きましたので割愛します。


 鬱を患ったことで降格され、前の職場に異動となりました。建築保全業務に従事することになりましたが、そこでも「システムに潜在する機能不全」に直面することとなりました。『何の目的にために何を作るか』ということを吟味することなく、「予算の範囲内で、国土交通省の基準にあうもの」だけを作ることになりました。『全体の幸福の向上』なとどいうことを考えることなく、ただ機械のように皆仕事をしていました。


 周囲は疑問さえ感じていないようでした。誰も『弱者』のことなど気にも留めていないようでした。彼らが気にしているのは、「責任を取らされることだけは避けたい」という思いと、「上司の顔色」だけに見えました。そんな中で、私は性懲りもなく「企画立案」を繰り返しましたが、体制批判的な内容は拒否され続けました。虚無感と憤りの中で今回の異動となりました。


 現在の職場は水力発電所です。高卒扱いの現場作業員として従事しています。自分が、一般的な意味でのプライドが高い人間ならば、さぞプライドが傷つくことだと思います。自分が歩んできた経歴や残してきた実績から判断すれば、不当な評価かもしれません。しかし、自分は『チャンスかも?』と感じています。理由は以下のとおりです。


 近い将来、金融市場至上資本主義は崩壊します。そして、化石燃料や未熟な原子力技術を用いた発電は、姿を消すことになるでしょう。金融市場至上資本主義を牛耳る人たちは、このようなエネルギー供給をも、手中に収めています。しかし、彼らが失脚するのです。


 彼らが抹殺してきたフリーエネルギーの技術等が陽の目を見るようになるのは明らかです。最終的には、各個人宅にそのシステムが設置されるようになるのでしょうが、それへの移行期間、現在の送配電システムを利用し、フリーエネルギーシステムから発生された電気を供給する時期があるはずです。それを実現するために、現状の発電システムとフリーエネルギーシステムの両方を理解できる技術者が必要となるはずです。その技術者に自分がなれるのでは?と感じています。


 この地球での貧困や争いは、エネルギーの不足が原因となって起こっています。エネルギーが空間から無尽蔵に供給されるようになれば、外面的な不幸は大幅に縮小されることになるでしょう。それを進めるものになれると思うと希望がわいてきます。


 『より多く与えられた者からは、より多く求められる』とイエスは言われました。私は、多くの経験をこの短い人生の中で経験させていただきました。文字通り「多く与えられた」 と言えるでしょう。それだので「多く求められている」のかもしれません。まだ、何も返せていないため、これから先の人生において、私は地球そして人類に恩返しするときなのだとも感じています。


 私が、個人情報を含むこの雑多な人生経験を公開したのは、このような考え方がどなたかの参考になればと思ってです。不遇もチャンスも、あなたがその状況に貼り付けた『ラベル』に過ぎません。全ての状況に『チャンス』というラベルを貼ることも可能だと思います。ラベルを貼る私たちがそのように決断すればいいだけなのですから・・・。





 2012/04/07(土)


 新たなスタートを切られた方が多いと思います。動機をチェックするチャンスです。



 進学なさった方、社会人になられた方、転職なさった方、職場を異動となられた方、様々かと思います。


 「晴れて大学生だ!」「やった栄転だ!」「心機一転、頑張ろう!」「なんで俺がこんな職場に・・・」等々、その感想も様々かと思います。ただ、どのような環境であったとしても、『自分にとってベストな環境である』と思うことが大切です。そのように考えることが難しい方もいるでしょう。そんなときは、自分の『動機』をチェックするチャンスだと思います。


 あなたが今いる環境にいるのは、何かあなたがアクションを起こした結果だと思います。会社であれば、何かを思いその会社を選んだ訳ですし、進学にしてもそうだと思います。たとえ今が『不遇』と思える環境であったとしても、あなたは『何らかの動機』があって、その『職・会社・学校』を選んだはずです。


 明確な熱意を持って、その環境を選んだ方もいれば、『ただ何となく』その環境を選んだ方もいると思います。どちらにしても、『動機を再確認する・動機を新規に設定する』チャンスだと思います。


 動機を明確にせずに、環境になじんでしまうと『目標とは異なる方向』へ流される可能性が高くなります。たとえばあなたが『公務員』だったとします。公務員は『全体の奉仕者』と言われています。昔は『公僕』と言われていました。


 このような立場である公務員が、「名誉」「地位」「権力」「事なかれ」に固執したとしたら、目指べき方向とは異なるところへ行き着くことになると思います。同じようなことは、政治家やお医者さんにも言えると思います。


 公務員も政治家もお医者さん(他の職業もそうですが)も、目指すは『全体の幸福の向上』のはずです。しかし、その本来の目指すべき方向をはき違えている輩が多いと思います。


 この再スタートの時に、自分がその道を歩み始めたときの動機(考えたことのない方は「今」考えてください)を再確認して欲しいと思います。もし、それが「金」「地位」「権力」等であるなら、それは転換されるべき動機だと思います。そのような動機で行動したとしても、あなたは幸福にはなれないと思うからです。


 篠崎由羅さんの「Spiritual nursing」の中で『理想の○○像』を持つことの大切さを述べられていました。これはとて大切な事です。ですが、気をつけなければならない点があると思います。それは『理想の○○像』が特定のシステムの中でしか機能できない時です。抽象的にならないよう先に出た公務員の例を基にお話を進めます。


 公務員は『全体の奉仕者』と言われています。そのため、世のため人のために働くのが責務です。しかし、よく言われるように彼らの仕事は『お役所仕事』である場合が多いです。お役所仕事とは、『前例がないことはやらない』『人から責められない範囲で仕事をする』『仕事が遅い(手続きが多すぎてなかなか先に進まない)』等です。


 とある人が『理想の○○像』を求め、行動しようとしてもシステムがそれを拒否する場合があります。この時、その人は『理想と現実のギャップ』に苦しむことになるでしょう。これが、先ほど述べた気をつけなければならない点です。


 『理想の公務員像』を他者にも求め『システムを改革』しようとしても、まず無理だと思います。理想の公務員像を自ら描くことは不可欠ですが、『理想のお役所』を目指すべきではないでしょう。「いや、そのような理想像を持った人が上に立ち、システムを改革したほうが結果的に社会のためになるでしょ?」というご意見があることは理解できますが、既存システムというものは、そのような人を受け入れるほと寛容ではありません。


 以前も記事にしましたが、マザーテレサに『なぜ政治家にならないのか』ということを質問した人がいたそうです。それに対してマザーテレサは『政治は政治家がすればいいのです。私は敬愛するイエス様だと思い、この死にゆく人のお世話をするだけです。その方が亡くなったら隣の人のお世話をするだけです』と答えられたそうです。マザーテレサは『理想のキリスト者』でありたかったのだと思います。


 イエス様も、既存のシステムの改革を最初は目指していたと私は解釈しています。しかし、『招かれたもので席についたものは少ない』という聖書の言葉にあるように、トップダウンでの改革はうまく行きませんでした。しかし、イエス様は理想を求めることを放棄することなく、対象を変えて愛を延長していくことを続けられました。


 理想は『外的な形』としてイメージするのではなく、『内面のあり方』としてイメージすべきでしょう。先の例で言えば、理想の社会システム等というものを求めるのではなく、理想の一公務員像をイメージすべきです。


 そして理想の公務員像とは、『全体の奉仕者として、「愛・平和・喜び」を延長していく者』と言えると思います。ちょっと抽象的になりましたので、解説を入れたいと思います。


 宇宙(形而上学上)で永遠と言えるものは、『愛・平和・喜び』だと言われています。それらが地球上にあまねく広まった時が、この地球の次なるステージの始まりだと思います。それを始めるのは『あそこ・あの人』からではなく、『ここ・自分』からなのだと思います。自分が、常に『愛・平和・喜び』に居続けることができるなら、自然とそれは延長されていくのだと思います。


 理想像を描く上で大切なのは、外的なシステム的なものにそれを投影すのではなく、己の中にそれを投影することだと思います。


 理想の内面を実現するために、難行・苦行は必要ではないと思います。あなたが、どんな方法でもよいので『愛・平和・喜び』の中にどっぷりと浸かることのみが必要であり、それがすべての出発点だと思います。


 この記事を参考に、出発のこの時に、あなたの動機・内面をチェックして頂ければと思います。もちろん、自分も含めてです。



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